徒然読書日記200706
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2007/6/29
「松井教授の東大駒場講義録」 松井孝典 集英社新書
未来を予測するためには、歴史を知ることが不可欠です。人文科学分野でいうところの歴史学は、 我々人類が文明を築いてきた何千年かの歴史ですが、現在の文明に関しては、そのようなスケールの歴史では未来を考えることはできません。
「自然」という「ビッグバン以来の宇宙の歴史を記録した古文書」を紐解き、
38億年分の「生命」の歴史
46億年分の「地球」の歴史
137億年に及ぶ「宇宙」の歴史を知るということ。
つまり「宇宙というスケールの中で初めて我々の未来を考えることができる」という、惑星科学の第一人者が、 「目はまだ輝いている」という駒場の学生を相手に、期待をこめて講義した「地球、生命、文明の普遍性を宇宙に探る」 知的刺激に満ち溢れた講義録である。
「地球環境の成り立ちと変遷」
「文明とは何か」
(「おばあさん」仮説)
「生命の起源と進化」
という「地球の特異性」を探る議論を踏まえて、
「太陽系とは?」
「もう一つの地球はあるか」という話から
「系外惑星系」つまり太陽系以外の惑星系へと、より普遍的なテーマが追求されていく。
「我々はなぜ普遍性を求めるのか」
これこそが、要素還元主義的に細かく細分化された本郷の専門課程に進学する前の、駒場の学生への講義として相応しいテーマだ という著者の熱い思いは、しかし、哲学や歴史や文学にトンと関心を持たなくなってしまった最近の学生たちの前で、 残念ながら、空回りに終わってしまったようなのである。
ギリシャ以来、学問は、普遍性をその価値の根幹に置き、自然や社会や人間に生起する現象を理解しようとしてきた。 そして21世紀を迎えた今、我々は初めて、これまでに獲得した智の体系にもとづいて、その普遍性について問うことができるようになった。 なぜか?宇宙に始まりがあり、宇宙の果てがその始まりの瞬間であることを観測したからである。 あるいは、太陽系以外の惑星系が存在することを観測し、地球や生命の存在を宇宙に探り始めたからである。 普遍性を問うためには、我々が大脳皮質で認識する外界の時空を、その限界にまで拡張する必要がある。 外界の限界とは、この宇宙の果てであり、時間の始まりの瞬間である。この世界は普遍か?
2007/6/26
「自分の体で実験したい」 Lデンディ Mボーリング 紀伊國屋書店
ジョン自身、ほかの人ならうめき声をあげるような苦痛でもものともしない。 ホールデーン家はスコットランドで数百年続く古い家系であり、代々、困難に負けない強さを重んじていた。 ホールデーン家の家訓は「耐えよ」である。
「本当に」悪い空気とはどのようなものかを調べるため、新鮮な空気は一切入ってこない、狭い木の箱に8時間閉じこもり、 あえぎ、嘔吐し、頭痛に苦しみ、顔色が青くなって気を失う。 この命懸けの実験の結果、ジョンが得た結論は、「問題は、酸素が無いことではなく、二酸化炭素が溜まること」というものだった。
特殊な環境で働く人々が安全に呼吸できるようにしたいという、ただそれだけの思いだけで、自ら「危険な」空気を吸い続けた父親の背中を見て、 息子のジャックは4歳で、自分の体で地下鉄や炭坑の「悪い空気」を吸い始めることになる。
なぜ、動物実験であってはいけないのか?
「ウサギが何を感じているかはよくわからない。それに、ウサギの多くは互いに協力しあおうとまじめに努力してくれない」
なぜ、自分でなくてはならないのか?
「人間であれば、答えを知りたいという好奇心がうち勝って、恐れや痛みに目をつぶることができる」
人間はどれくらい高温の空気に耐えられるのか、という限界に挑むため、 127℃もの高温室(生のステーキ肉は13分でウェルダンになった)に入ってみせた英国紳士もいれば、
食べ物はどうやって消化されるのかを知るために、木の筒に詰めて呑み込んでみた(出てきたものを味見までした)イタリア人もいる。
患者の血液を自らに接種して、「ペルーいぼ病」が感染症であることを見事に実証してみせたダニエル・カリオンは、 ペルー人の誇りを胸にすることはできたが、予想通り「命」を落とすことになった。
というわけで、「キュリー夫妻」以外は、あまり有名ではない「科学のために自分の体で実験した」10組の科学者たちの物語なのではあるが、 涙ぐましいほどの犠牲を払った代償というにしては、彼らが実際に手にしたものは、意外に「つつましい」ものに過ぎない。
しかし、彼らは「何か」を得るために、仕方なく「自分の体で実験した」のではなく、 表題にあるとおり、誰がなんと言おうと「自分の体で実験したかった」にすぎなかったのだろうと思う。
「良い子はけっしてまねしないように。」
という、訳者の注意書きがあるが、少なくとも私は、まねしたいという気にはとてもならないのだった。
2007/6/20
「藪枯らし純次」 船戸与一 北国新聞
やぶがらし【藪枯らし】:
ブドウ科の多年生蔓草。路傍・空地などに生える雑草。二岐(ふたまた)になった巻鬚(まきひげ)で樹木などに巻きついて茂り、 往々それを枯らす。
(北信州の道草図鑑)
興信所の調査員・高倉は、中国地方の秘湯「赤猿温泉郷」へ向かうよう指令を受ける。
村民全員から陵辱を受けて自殺した母と姉の恨みをはらすため、「藪枯らし純次」が村へ帰ってくる、その動向を見張れというという内容だった。
村へ戻ってきた純次が、「レッド・モンキー」という、寂れた温泉街には場違いなジャズ・バーを開店し、 「マディマッドネス」という怪しげな曲を流し始めた時、 封印されていた村の秘められた過去の怨念が解きほどかれ、村人たちは、一人また一人と、破滅の道を歩み始めることになった。
というわけで、北国新聞の連載が終了。
船戸与一にしたら、いささか物足りない気はするが、一応最後まで読み通したのだから、文句は言わない。
最終話において、このお話の主人公であったはずの高倉までもが、首を掻き切られて死んでいく・・・?という想定外の展開には、 「なかなか、やってくれるじゃないか」と素直に脱帽する。
そして、薄れていく意識の中で、高倉はようやく悟るのである。
「ああ、私はあくまで狂言回しにすぎず、最後まで自らは手を汚すことのなかった純次こそが、本当の主人公だったのか?」
そんなこと、最初から「題名」に書いてあるんですけど。
2007/6/17
「空飛ぶタイヤ」 池井戸潤 実業之日本社
昨年十月の事故以来、赤松の周辺で起きた様々な出来事が急速な勢いで蘇り、胆汁がこみ上げてくるような苦味が心に広がっていく。
この苦しみがわかるか。
悲しみがわかるか。
小さな男の子を置いて逝っちまった母親の悔しさと悲しみが、あんたたちにわかるのか。 母親を奪われて、健気に生きてる少年の気持ちがわかるか。あの追悼文集を読んで涙する気持ちがわかるか。
「納得できるわけないだろ」
ブレーキを踏んだ拍子に、トレーラーの左前のタイヤが飛んで、歩道を歩いていた親子を直撃、母親は死亡した。
旧財閥系のメーカー、ホープ自動車の出した調査結果は、運送会社の「整備不良」が原因というものだった。
警察による家宅捜索、主要取引先からの賠償請求と取引打ち切り、被害者からの民事告訴、従業員の転職、メイン銀行の融資引き上げ、 PTAからの会長解任要求・・・
天下のホープに自らの「責任」を指摘されたことにより、次々と押し寄せてくることとなった「難題」を前にしながら、 「ホープ自動車の構造的欠陥を証明する」という、絶望的であるだけに、中小企業のオヤジの「誇り」をかけた、命懸けの闘いが始まった。
「私どもが容疑を認めないことにお怒りになっているのは仕方のないことだと思います。 ですが、あなただって、真相は究明されたいと思っていらっしゃるはずです。事故の本当の原因はなんなのか、 それに少しでも疑いがあれば、はっきりさせるべきです。 これは、私どもの責任で、亡くなられた奥様のためにも絶対に明確にするつもりでおります。」
読み始めたら「止まらない」という、危険な面白さに満ち溢れた傑作である。
「大企業」や「銀行」が振りかざす、あの「解かった様で解らない」手前勝手な論理の暴走に、 「身に覚えのある」中小企業のオヤジの頭は「沸騰」する。
断崖絶壁の上で一歩も後退できないという「資金繰り」の地獄の疑似体験に、七転八倒の身悶えを味わい、 「起死回生」の天国への帰還に目頭を熱くするのである。
もう少しの我慢だとか、今を乗り切ればなんとかなるとか、そんな上っ面な言葉はたちどころに排され、 耐えるしかない悲惨な現実だけが目の前に醜悪な現実として横たわっている。
つらい時、人はそれがいつかは終わると確信しているから強くなれる。だが、いつ終わるとも知れない戦いがもたらすものは、絶望と脱力だ。
それでも俺は戦わねばならないのか。
2007/6/14
「累犯障害者」 山本譲司 新潮社
「おいお前、ちゃんとみんなの言うこときかないと、そのうち、刑務所にぶち込まれるぞ」
そう言われた障害者が、真剣な表情で答える。
「俺、刑務所なんて絶対に嫌だ。この施設に置いといてくれ」
これは、2000年9月、政策秘書給与の流用事件で実刑判決を受け、433日に及ぶ獄中生活を送った元衆議院議員の著者が、 刑務所内で耳にした受刑者同士の会話なのである。
法務省が毎年発行している『矯正統計年報』の「新受刑者の知能指数」によると (受刑者全員が知能テストを受けているということ自体が驚きであるが)、 総数32,090名のうち、7,172名(22%)が知能指数69以下、測定不明の1,687名を加えれば、 受刑者の3割弱は「知的障害者」ということになるのだ。
かくの如く、私が獄中で出会った受刑者のなかには、いま自分がどこにいて何をしているのかすら全く理解していない障害者がいた。 さらには、言葉によるコミュニケーションがほとんどできない、重度の知的障害者もいる。 刑法第39条でいう「責任能力」の有無はともかくとして、私には、彼らが「訴訟能力」や「受刑能力」を有しているとは、とても思えなかった。
「この人たちは、一体どんな裁判を受けてきたのかね」
「知的障害者がその特質として犯罪を惹起しやすい」などということは決してない、むしろ彼らは「規則や習慣に極めて従順であり、 他人との争いごとを好まない」のが特徴だ。
しかし「障害者のほうが健常者よりも、より劣悪な生活環境におかれている場合が多い」という日本社会の現実の中で、 「貧困だとか悲惨な家庭環境といった様々な悪条件が幾重にも重なることで、不幸にして犯罪に結びついているケース」が頻発している。
そして、一度そのようなケースに巻き込まれてしまえば、コミュニケーション能力に欠けているために、 自らを守るすべも、反省の態度を示すこともできない障害者たちは、なかなか抜け出すことができない。 それがしばしば「冤罪」を生むことにもつながっているということなのである。
知的障害者、精神障害者、視聴覚障害者、肢体不自由者が起こした「事件」の裏側にあるもの、 マスコミがタブーとして取り扱おうとしないこの「衝撃の真実」に、「受刑者仲間」として踏み込んだ「迫真のルポ」である。
「山本さん、俺たち障害者はね、生まれたときから罰を受けているようなもんなんだよ。だから罰を受ける場所は、どこだっていいんだ。 どうせ帰る場所もないし・・・。また刑務所の中で過ごしたっていいや」
(・・・)
「俺ね、これまで生きてきたなかで、ここが一番暮らしやすかったと思っているんだよ」
2007/6/5
「脳はなにかと言い訳する」 池谷裕二 祥伝社
『ド忘れは本当に忘れているわけではない』
「人の名前が出てこない。なんという人だったっけ」というときに、他の人から「それは○○さんでしょ」と言われると、 「あっ、そうそう」と、その名前が今自分の探そうとしていた人であるかどうかがすぐにわかります。とても不思議なことです。 名前がわかっていない状況なのに、「正解が何か」をすでに知っているわけですから。答えを探している自分、正解を知っている自分。 矛盾した二人が脳の中に同時に存在することになります。
検索エンジンでは、ユーザーが始めに「正解」を与えるのだから、コンピューターは最初から「答えがわかって」いて探しているに過ぎない。
これに対して、私たちの脳は「答えがわかっていない」ものを探し出すことができるのだから、
大人のほうが多くの記憶が脳に詰まっているのだから、子どものようにすらすら思い出せなかったとしても仕方がない。 これは大容量になった脳が抱える宿命なのだ。ド忘れしたときには「それだけ私の脳にはたくさんの知識が詰まっているのだ」 と前向きに解釈するほうが健全だろう。
これ以外にも
『海馬を鍛えれば記憶力は上がるか』
『あの人を好きになったほんとうの理由』
『思い出しさえしなければ、思い出せる?』
『うつ病は、ある意味、賢さの表われ』
『血液型が、性格や病気の発症に関係するか』
(→血液「O型」は「絶滅危惧種」? )
というような、「脳はなにかと○○する」と題した興味津々のお話が、全部で26題。
しかも、この「ロマンと謎と驚きに満ちた」脳科学の世界を案内してくれるのが
「海馬 脳は疲れない」(朝日出版社)
「進化しすぎた脳」(朝日出版社)
でご紹介した、新進気鋭の大脳生理学者・池谷裕二とくれば、その内容は折り紙つきの充実ぶりなので、とても1回では語り尽くせない。
というわけで、今後も折りを見て、少しずつ話題に取り上げて行きたいと思っているのである。(ネタのない時に重宝するしね。)
2007/6/4
「風の影」 CRサフォン 集英社
「ダニエル、きょう、これから、おまえが見にいくもののことは、誰にも話しちゃだめだぞ」と父が注意した。 「友だちのトマスにも、誰にもだ」
「ママにもだめ?」と、ぼくはささやき声できいた。
父はため息をついた。そして、生涯影のようについてまわる、あの悲しいほほ笑みをうかべてみせた。
「もちろんいいさ」と、うつむきかげんで父は答えた。「ママに秘密はなにもない。ママになら、なにを話してもいい」
物語の舞台は内戦の傷跡の残る1945年のバルセロナ。
4歳の誕生日に母をコレラで失ったダニエルが、10歳になって「ママの顔が思い出せなく」なった時、古書店を営む父親に連れて行かれたのは、 「時の流れとともに失われた本が永遠に生きている」場所だという『忘れられた本の墓場』だった。
ここでダニエルが出会うことになった「ぜったいにこの世から消えないように、永遠に生き長らえるように、守ってやらなきゃいけない」一冊の本。
謎の作家フリアン・カラックスの『風の影』との、この運命の出会いは、フリアンの、目くるめくような愛憎うずまく、 秘められた過去の世界へとダニエル少年を誘い込み、いつしかフリアンの人生の映し鏡のように進行していく自らの運命の中で、 ダニエルは少年から青年へと「脱皮」を遂げることになる。
「文学と読書愛好家への熱いオマージュを捧げる本格ミステリーロマン」
という「売り文句」に、嘘偽りはない傑作中の傑作ではあるが、ミステリーであるので、粗筋はこれ以上は書かない。
一つだけ言っておくことがあるとすれば、この本は、今どきの日本のベストセラー、例えば「ライトノベル」のように、 お気楽に「読み飛ばす」ような類の本ではない。だいいち、それではあまりにもったいない。
ぜひとも、この「まとわりつくような」それでいて「リリカル」で「センチメンタル」な、絶妙の「語り口」をこそ、 心ゆくまで味わっていただきたいと思う。
例えば、ダニエルと父親センペーレの「微妙な距離」をおいた関係の描き方に、私は何度か胸に迫るものを感じたのである。
ぼくの父は、自分では認めたがらないが、本の背を読むのも難儀になり、いま、上階のピソにいる。 父は幸せなのだろうか、心静かなのだろうか、ぼくらがいっしょにいることが、なにかの支えになっているのか、 それとも、昔から父につきまとうあの悲しみと、自身の思い出のなかに閉じこもって生きているのだろうかと、ぼくはくり返し考えている。
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