徒然読書日記200705
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2007/5/27
「甘えんじゃねぇよ!」 吉田戦車 ちくま文庫
「いいか、お前ら。きちんとすわれ」「は、はいっ!」
とググッと迫るパンダの「迫力満点」のアップで締めくくられる4コマ目を見ているだけで、 吉田戦車の胸の奥に刻み込まれた、若い女性に対する鬱屈とした思いが偲ばれ、他人には計り知ることのできない「悲惨な体験」 があったに違いないと確信してしまうのですが、 現在、讀賣新聞土曜版で連載中の中沢新一『無人島のミミ』の挿絵では、「時代外れ」「国籍不明」の「不気味な懐かしさ」が炸裂していて、 こうした二つの感性が、見事に「不調和」に溶け込んだ「シュールな世界」を構築していたのが、 あの不朽の名作『伝染るんです。』であったことを、懐かしく思い出しました。
最後に私の「お気に入り」をご紹介。
「あ、馬鹿だ。パパ、馬鹿って馬鹿なの?」「馬鹿が利口なわけないだろ。」
と指差されて、動物園の檻の中で涙を流す馬鹿。
馬鹿はやはり馬鹿でしかなかった!のでありました。
2007/5/21
「漢字は楽しい」 小山鉄郎 共同通信社
白川静さんによると漢字の聖典といわれる「説文解字」も、例えば「告」(旧字は牛に口)という文字について、こんな説明をしています。
「牛が人に何かを訴えようとするとき、口をすり寄せてくる」という形をした文字だというのです。 白川静さんは、こういう解釈は「俗説」にすぎないと断言しました。
この口が「くち」ではなくて、神への祝詞を入れる箱である「サイ」(アルファベットのAの頭を丸くして逆様にしたような字)であることを、 体系的に明らかにしてみせた「白川漢字学」の世界では、これが、
「告」の古代文字を見ると、木の小枝に祝祷を納める器である「サイ」を懸けている形です。 つまり「告」とは、祝祷の器を小枝に懸けて、神に訴え告げることをあらわした文字です。
ということになるからである。
「白川静さんに学ぶ」という副題の付いたこの本は、「なぜ、学校ではこんなふうに教えてくれなかったのだろう」と後悔してしまう (しかも、膨大な著作を残した白川静さんは、昨年10月に96歳で亡くなられてしまったのだ)ほど、 漢字の成り立ちや体系を、楽しく学ぶことのできる好著である。
その「サワリ」を、ここに少しだけご紹介しておこう。
「哀」という字は、「衣」という「襟元を合わせた衣の形」の中に「口」が入っている。この「口」が「くち」ではなくて「サイ」なのである。
死者の衣の襟元の胸のところに「サイ」を置いて、死者への哀告の儀礼を行うというのが「哀」なのである。
「還」という字の「シンニョウ」の中には、「哀」の上に「目」を横倒しにしたものが乗っかっているように見える。 ところが古代文字を見ると、ここにある「口」は「サイ」ではなく「○」である。
死者の衣の襟元の胸に死者の霊力を盛んにする「○(玉)」を置き、その上に人間の生命力の象徴である「目」をかいて、死者が生き返 ることを願う、 それに「行く」という意味を表す「シンニョウ」が付いて、生還することを意味するのが「還」なのだ。
「遠」という字は、「還」の「目」の代わりに「土」が乗っかっている。古代文字を見ると、これは「止」つまり「足跡」の形であることがわかる。 (交差点の一時停止のマークですね。)
死者の枕辺に「止(履き物)」を置き、衣の襟元の胸に玉を置いて、死者を送り出す、それに「シンニョウ」が付いて、 死者が遠くに行ってしまうことを意味するのが「遠」なのだ。
どうです?もっと読みたくなったでしょう?
2007/5/17
「生き抜くための数学入門」 新井紀子 理論社
見えない抽象的なものを見る方法は、禅や詩などほかにも方法があるでしょう。 けれども、見えないものを見て、それを誤解なくどの文化に属する人とも共有する、ということになると、それは論理であり数学なのだろうと思います。
「情報量と選択肢の多い民主主義社会」である現代社会とは、「見えないもの」(たとえば「権利」「リスク」「未来」)について、 「だから」「どうして」「どうなる」かを論理的に考え、比較検討できる個人を前提とした社会なので、 「数学的な構え」を身につけていなければ、「原因はわからないけれどなんとなく不幸」ということは、つまりは「幸せになれる確率」は相当に低くなる。
要は、「なぜ」と自分自身にたずね、「それは・・・だから」と論理的に順序よく考えて結論を出すことが習慣になっているようなら、 あなたは数学的な構えができている、ということなのです。
というわけで、この本は、
1.宝くじを買う。とくに、ジャンボ宝くじはかならず買う
2.献立を思いつかなくて、スーパーでうろうろする
3.テレビで紹介された健康法はかならず試して、たいてい三日坊主で終わる
4.「なぜ?」と聞くと「うるさい!」と答える
5.安い、と評判のスーパーまで遠出をして、疲れて外食して帰ってくる
もしも、これらがほとんど当てはまるようならば、
「中学校以降で数学を勉強したことが人生に生かされていない可能性大だ」
と考える、「数学ギライの数学者」(一橋大学法学部卒)による、「とは」力と「なぜ」力をつけるための入門書なのであり、 中学生を主たる対象とした「よりみちパン!セ」シリーズの中の1冊なのではあるけれど、
1時間目が「かけ算を宇宙人に教えよう」で始まるあたり、 たかが中学生のための「入門書」だろうと思ってなめてかかるのは、相当に危険である。
「自分がいかに何も理解できていないか」ということを身をもって知るためには、「何も知らない他人に教えてみる」というのが一番であることは、 誰もがある程度経験的に理解していることだろう。
「負の数の掛け算の意味」という「初歩的な驚き」から始まった議論は、やがて「無限」や「確率」の話から「グラフ」や「三角関数」へと進み、 ついには、あの
「博士の愛した数式」(小川洋子 新潮社)
における「eのπi乗」の意味の高みへと至るのである。
2007/5/14
「狼少年のパラドックス」 内田樹 朝日新聞社
ビジネス・マインデッドなテクノクラートが大学の管理部門を占めるようになると、大学は間違いなく等価交換のルールが支配する場になる。
しかし、日本社会にとって真に深刻な問題は、そういう等価交換のスキームで高等教育を受ける学生たちには 「イノベーション」を担う可能性がきわめて低いということである。
「お金を払うから等価の教育サービスを与えよ」
「自分の努力や能力に相応しいポストや年収を得ることがルールに合致した正しい生き方である」
と考える人たちには「オーバーアチーブ」ということの意味がわからない。なぜなら、それだと「損してしまう」ことになるからである。
そして、「努力と成果の相関についての見通しが立つ場合にのみ研究する、そうでなければ研究しない、というような合理的な人間は、 はなからイノベーティヴな場には参加してこない」のだから、そのような計算をしないタイプの人たちが、たまたま集まったときにのみ、 「予見不能の爆発(ブレークスルー)」が起こるのである。
「学ぶ」というのは努力と成果の等価交換ではないからだ。自分が何のためにそれを学ぶのか、自分が学んでいることにはどんな意味があるのか、 を学び始めるときには何もわからないというのが学びの構造である。
まるで「ついさっきまで自分が考えていたこと」を「言い当てられる」かのように痛快に語られていく、いつもの通りの内田本の、 今回のテーマは「ウチダ式教育再生論」。
もちろん、実際には「そんなこと今まで考えたこともなかった」というのもまた、いつもの通りであるわけなので、 ご紹介しようとすると、引用だらけになってしまうのである。
ちなみに「狼少年のパラドックス」というのは、
「狼が来た」という(それ自体は村落の防衛システムの強化を求める教化的な)アナウンスメントを繰り返しているうちに、 「狼の到来」による村落の防衛システムの破綻を無意識的に望んでしまうことである。
「ここが問題です」と指摘した人は、「おのれの指摘の正しさ」を事実で証明するために、「問題の発生」を待ち望むようになる、ということなのだ。
というわけで、「自己点検・評価結果の客観性・妥当性の確保のための措置」についての私の回答は、 「あらゆる自己点検・評価は、自己の欠点を過小評価する人間と、自己の欠点を過大評価する人間を構造的に二極化するという事実を クールかつリアルに受け止めること」というところに落ち着くのである。
2007/5/10
「宇宙授業」 中川人司 サンクチュアリ出版
宇宙の始まりはすべての物質の始まりであるとともに、空間の始まりでもあり、時間の始まりでもあります。 だから「宇宙が始まる前にはなにがあったんですか?」という質問はナンセンスです。時間が流れている中で、宇宙が始まったのではなく、 時間そのものがそのとき始まったからです。時間が始まった時点より前の時間は存在しません。(「宇宙のはじまり」)
地球儀の北極点から南に向かって、「緯線の輪」が滑るように広がっていく姿を想像してみる。
これが「インフレーション」から「ビッグバン」を経過して現状へと至る「宇宙の誕生から成長へ」のドラマを、 2次元(といっても曲面)に置き直した「イメージ」というものになる。
「緯線の輪」が赤道を超えて、南極に向かって収縮していくのか、そのまま広がり続けるのかについては、これまで永い間論争が続いていたが、 この本によれば、どうやら広がり続けるということで決着が付いたようだ。
この「イメージ」が秀逸なのは、スタート地点の「北極点」が他の地点とは何の変わりもないというところにある。
つまり「宇宙のはじまり」は「特異点」ではないので、時間を逆に遡っていくと、「ビッグバン」から「インフレーション」を経過して 北極点に向かって収縮していった「緯度の輪」は、そこでその滑るようなスピードを緩めることなく、容易に裏返って、再度広がり始めることができるのである。
これこそが、天才物理学者ホーキングが提唱するところの「虚数の時間」の理論の骨子である。(と、私は勝手に理解している。)
もちろん、本当の宇宙は2次元ではないので、4次元球の上を、裏返りながら伸縮する時空間というものを「イメージ」してみる必要はある。
さて、以上のような話がこの本に書いてあるわけではないのだが、
「宇宙人はいますか?」
「光速の世界」
「見えているものは、すでに古い」
「どこから、宇宙なの?」など
「まるで、知り合いの家の裏庭の様子をきいているかのように」(茂木健一郎)宇宙のことがとてもわかりやすく書かれているので、
「うまく思い描けないのは、まだ体験していないから」
というのは、この本に書いてある通りなのだ。
空間の中に宇宙(空間)があるのではなく、宇宙自体が空間です。
もしも「ある空間の中に宇宙がある」と考えると、「宇宙の外にはなにがあるか」という疑問が生じます。でも空間とは宇宙そのものです。 ビッグバンで宇宙という空間が生まれ、それがどんどん拡大しています。空間そのものが拡大しているのです。(「宇宙の外側にあるもの」)
2007/5/9
「食い逃げされてもバイトは雇うな」 山田真哉 光文社新書
近所に、いつ見てもお客さんがほとんどいないボロボロのラーメン屋があります。どうして潰れないのでしょうか?
「ほとんどいない」ということは「まったくいない」わけではないので、1時間に2人は来るとして、平均客単価1000円で計算してみると、 月に52万円程度は売上を確保できることがわかる。店主1人で、自宅で店を開いているのなら、手元に26万円程度は残り、何とかやっていけるのだ。
大事なのは、感覚や印象ではなく、実際に数字(金額)で考えてみることです。そうすることではじめて、見えてくることがあるのです。
そんなお店で、店主が出前しているすきに「食い逃げ」する奴がいるからといって、「バイト」を雇うのは愚かなことである。
金額だけを見れば、バイトを雇うより食い逃げ犯を見逃したほうがお得になるのです。
まとめ 「感情より勘定(数字)で判断する」こと
話題のミリオンセラー
『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』
で 「身近な商売」を通じて会計の考え方を説き起こした、あの山田真哉2年ぶりの書き下ろしは、 「数字がうまくなる」ためのコツを掴む「正しい訓練」の仕方を紹介する本だった。
「ビジネスの数字」がうまくなるためには
→数字をこねくりまわす(言い換え、割り算、単位変換)
「会計の数字」がうまくなるためには
→数字をありのままに見る(金額重視、損益計算)
「決算書の数字」がうまくなるためには
→「読む」のではなく「探す」「比較する」
数字自体に苦手意識がありながら、簿記の勉強を始めてしばらくしてから、 「数字ばかりだと思っていたけれど、半分は文字で書かれているじゃないか」と唐突に気づいた時が「数字がうまくなった瞬間」だったと豪語するだけあって、 一番秀逸なのが「題名の付け方」なのは、さすが文学部史学科卒の「超文系」の面目躍如である。
2007/5/2
「世界と日本の見方」 松岡正剛 春秋社
この言葉はとても有名なものですが、「人間は考える葦である」というところだけでおぼえてはいけません。 その前に「人間は弱い一本の葦にすぎない」とあるところが、もっと重要です。この「弱さ」のことを「フラジャイル」といいます。 「折れやすい」「壊れやすい」ということです。でも、折れやすく、壊れやすいからこそ考えるのだというのです。
人間とは、マクロとミクロ両方の、二つの宇宙を同時に考えることができるという意味で「考える葦」なのだ、と捉えることで、 「デカルト」の幾何学的「方法」による思索を超越してしまった「パスカル」の出現が、 単焦点のルネサンスから、複焦点のバロックへと向かうヨーロッパ文化の流れを象徴する一つの「事件」であったとすれば、
丁度そのころ、室町時代の日本には、「侘び茶」という新しい「美の価値」を創出した「千利休」の優秀な弟子として、その精神を継承しながら、 究極まで突き詰められることで行き場を失おうとしていた「茶の湯」のスタイルを、もう一度自由奔放に開放して見せた「古田織部」が出現していた。
この本には「17歳のための」と銘打たれてはいるが、例え読者が50過ぎのいささか人生にくたびれた「おじさん」であろうとも、 世界と日本をめぐる「意識」や「文化」が歴史的にどのように発生し、変化し、さまざまな対立や融合を生んでいったのかという観点から論じられた、 あの驚異の
『千夜千冊』
の「遊学者」編集工学研究所所長・松岡セイゴオ先生の 「人間文化講義」なので、サクサクと読み進むだけで、
・ヒトが直立二足歩行をして「人間」になったことの意味
・言語が物語をつくったのではなく、物語を編集することが各国の言語をつくったということ
・「善悪」二元論にもとづく価値観と一神教の流布について
といった流れの中で、「日本」にかつては存在していた「二分法ではない見方」や「引き算の美学」を眺めまわし、
「バロック」的な「方法の自由」や「つながりの文化」という「関係を編集する」ことの有意義性を学ぶことができるのである。
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