徒然読書日記200704
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2007/4/27
「データの罠 世論はこうしてつくられる」 田村秀 集英社新書
そもそも、その番組を見ているということは、筑紫哲也氏なり、NEWS23の報道方針に比較的共感している人が大部分と考えて間違いないだろう。 しかも、同番組ではイラク派兵には否定的な報道が多く行われていたわけであるから、テレゴングがこのような結果になっても、むしろ当然と考えた方がよい。
従って、世論調査では「賛成46 反対49」と拮抗している「イラクへの自衛隊派遣」について、 NEWS23の実施したテレゴングで「賛成23 反対77」という極端な結果が出たのは、
・テレゴングの対象者(母集団)は、NEWS23を見ていた視聴者である
・そのなかでも、電話代を払ってまで、わざわざ投票をするという強い意志を持った人たちの投票結果である のだから、
「これはあくまで特定の人の考えが示されたものであり、無作為に選ばれた人に対して公平に実施される世論調査とは似て非なるものである。」
・餃子日本一は本当か?
(サンプリング調査の罠 大切なのは数の多さより有効回答率である)
・
日本人の英語力はそんなに低いのか?
(平均信仰の罠 平均値という一つのデータだけですべてを判断するのは禁物である)
・地方公務員の給与はそんなに高いのか?
(世論誘導の罠 公平性、客観性という点を無視したデータによる比較は無意味である)
巷に溢れている「視聴率」「内閣支持率」「経済波及効果」「都道府県ランキング」等の様々なデータは、その「実態」を正確に表しているという場合よりも、 間違った解釈によって意味のないものとなってしまっていたり、さらにはある意図をもって捻じ曲げられている場合すらある。
ということは、そのデータが隠し持っている「罠」を見破ることで、その隠された「意図」を見抜くことこそが、 「正しい」データの読み方ということになるのだろう。
2007/4/25
「川の光」 松浦寿輝 讀賣新聞
「随分前からこの小説を考えていたのですが、文芸誌の編集者に話すと、30秒ほど沈黙のあと『ところで――』と話題を変えられてしまう。 それでずっと、構想を温めてきました」(本よみうり堂@讀賣新聞)
突然始まった護岸の改修工事により、住み慣れた川を追い出されることになった親子が、新しい住処を求めて命懸けの大移動を始めるという 「大活劇浪漫」なのだと、いくら眼を輝かせながら説明してみたところで、
「花腐し」
で「芥川賞」を受賞した、あの松浦寿輝の初めての新聞連載となる作品が、
物語の主人公として、たくましく成長していくタータとチッチは、幼くも健気な「ネズミの兄弟」なのだ
と聞けば、担当編集者が戸惑ってしまう気持ちも理解できるような気がします。
なにせ、
獰猛なドブネズミ軍団に行く手を阻まれながら、地下組織の革命軍の助けを借りて命からがら逃げ出したり、
世話好きなモグラのお母さんの家で、しばらくの間楽しく過ごしたり、
スズメの夫婦や、猫のおばさんや、体は大きいけれどまだ幼い犬のタミーとの交流など、
登場してくる小動物たちのそれぞれが、こいつともし話すことができたとしたなら、このような身振り、口振りであるに違いないといった雰囲気で、 どうかすれば、読んでいる方が恥ずかしくなってしまうほど「ベタ」な設定の中で、水を得た魚のような「大活躍」を見せてくれるわけなのです。
これって「勧善懲悪物」の「人形劇」だったんですか?
なんてことをいいつつも、毎日ハラハラドキドキと、続きを楽しみにしながら「読み切ってしまった」わけですから、さすがは松浦寿輝というべきなんでしょうね。
2007/4/21
「不都合な真実」 Aゴア ランダムハウス講談社
なぜ、これほど多くの人々が、事実が明確に示しているものに対して、今でも抵抗しているのか?−− 理由の一つは、気候の危機に関する真実は、自分たちの暮らし方を変えなくてはならないという、「不都合な真実」だからではないかと思う。 こういった変化のほとんどはよいものであって、温暖化防止以外の理由でもやったほうがよいことなのだが、それでも不都合なのである。 変えるべきものが、冷暖房の温度設定を調整するとか、新しい種類の電球を使うとかいった小さなことにしろ、 石油や石炭から再生可能な燃料に切り替えるといった大きなことにしろ、そのためには骨を折らねばならないからだ。
「大気はとても薄い」(球に塗ったニスの厚みのようなもの@カール・セーガン)ので、私たちはその組成を劇的に変えることができてしまう。 そして、現在の地球上の大気に占める二酸化炭素の濃度は、過去65万年間の記録にあるどの時点よりも、ずば抜けて高く、さらに激増し続けているのだ。
その結果、明らかに、私たちのまわりの世界に、ものすごい変化がおきている。
「温室効果ガス」の激増が、地球の平均気温を押し上げていることで、
・世界中の山岳氷河は、ほぼ例外なく、溶けつつある。
・海水温が上がって、ハリケーンや竜巻の被害が激増している。
・雨の降る場所が変わって、洪水と渇水が頻発し、世界の砂漠化が進んでいる。
・北極と南極の永久凍土が溶け始めている。
南極大陸のすべての氷が溶けたり割れたりして海中に滑り落ちると、世界中の海水面は5.5〜6メートル上昇することになる。
(春とはいえ、まだまだ寒いですが )
私たちはその時「世界地図を、描き直さなくてはならなくだろう」
というわけで、ちゃんと「描き直された世界地図」をこれでもかと示してくれるこの本は、
「アカデミー賞のドキュメンタリー部門賞を受賞した作品」
の書籍版ということもあり、読むための本というよりは、様々なデータに裏付けされた「世界の現実」を見るための本なのである。
温暖化に関する真実は、一部の力の強い人々や企業にとって特に不都合であり、歓迎せざるものなのだ。 そういった人々や企業は、地球をいつまでも住める場所にするには、自分たちに巨額のお金を儲けさせてくれている活動を、大きく変えなくてはならない、 ということを十分に承知しているのである。(地球温暖化を政治問題化する。)
↓(どうぞこちらもお読み下さい)
なるほど「不都合な」真実
2007/4/17
「打ちのめされるようなすごい本」 米原万里 文藝春秋
ある日、国語の時間に教師が、「井原西鶴の『好色一代男』を読んだ人」とたずねた。手を挙げて周囲を見回すと私一人だった。 「では、田山花袋の『蒲団』は?」またしても私一人。級友たちは謙虚すぎるのかと思ったら、本当に読んでいなかった。 なのに、作者の名前と本のタイトルと発表年とは読んだ私より正確に覚えている。これは打ちのめされるような大ショックだった。 読書そのものの感動を体験せずに、そんなデータだけ覚えて得した気になるなんて、何と味気なく退屈な人生なのだ、と。
ロシアからの帰国子女である米原さんが、9歳から14歳までの「五年間の空白」を埋めるために実践したのは、 高校受験用に暗記すべきと言われた日本文学史に載っている作品を全部読むことだった。
「ゴルバチョフやエリツィンが名指しで依頼してくるほどのロシア語同時通訳の第一人者」(@井上ひさし)となった彼女が実践する、 新しい言葉を身に付け、維持していくために最も苦痛の少ない「秘訣」とは、多読乱読の「読書」だったのである。
「通訳になるにはどのくらいの語学力が必要なのでしょうか」
と尋ねられるたびに、私は自信満々に答えている。小説を楽しめるぐらいの語学力ですね、と。 そして、さらにつけ加える。外国語だけでなく、日本語でも、と。
彼女の恐るべき才能は「通訳という透明な存在」という「枠」のなかには、到底納まるようなものではなかった。
軽妙洒脱なエッセイで、数々の受賞に輝いたことは言うに及ばず、
「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」(角川書店)
で、大宅壮一ノンフィクション賞
「オリガ・モリソブナの反語法」(集英社)
では、Bunkamuraドゥマゴ文学賞と、
「圧倒的な存在感」を示し続けながら、卵巣癌との壮絶な闘いのなかで、私たちを置き去りにして駆け抜けていってしまったのである。
この本は、そんな米原さんが私たちに残してくれた「書評」のすべてである。
この本を読むことで私たちは、彼女が「打ちのめされた」のはどんな本だったのかを知るのではない。
この本を読むことで私たちは、どのように読めば「打ちのめされる」ことができるのかを知るのである。
2007/4/16
「真鶴」 川上弘美 文藝春秋
歩いていると、ついてくるものがあった。
まだ遠いので、女なのか、男なのか、わからない。どちらでもいい、かまわず歩きつづけた。
少し前に、クリーニングに出そうとしたジャケットの胸ポケットに入っていた紙片の隅に、小さく書かれていた「21:00」という時刻らしき数字。
覚書ばかりの日記の、ひと月ほど前の日付に、ボールペンでほそく書かれていた「真鶴」の文字。
二つの謎を残したまま、突然失踪し、消息を絶ってしまった夫の影を追って、私は「まなづる」を歩く。 母が「つよい場所」といやがるところへ、「ついてくる」ものに誘われながら。
こんなふうに傷みをくわえることのできるのは、百だけだ。容赦がない。やわらかなところへ、かまわずくわえてくる。跡になって膿むとも知らず。
「わたしが刺されて傷んだ」ことなど想像もできず、「とがっているだけ」「反射のようにいいかえしているだけ」の娘の百は、 小さな子供のように扱おうとする母の手をすり抜けるかのように、いつのまにか巣立ってていこうとしている。
百には、やわらかな部分しか、さらせないのだ。かたくおおって守ればいいものを。むかし、百を自分のからだが所有していたことをおぼえていて、 へだてをつくって拒むことはできない。
「まなづる」への旅とは、夫の記憶を辿りながら「ついてくるもの」に逆に「ついて行く」旅だったのではあるが、
幽かな思い出に触れる「彷徨い」を繰り返す中で、それはいつしか何かを「探しに」出かけるものではなく、 何かを「置き去り」にしてくるためのものだったことに気付くのである。
2007/4/6
「時間はどこで生まれるのか」 橋元淳一郎 集英社新書
放っておいても、自然法則だけにしたがって、ひとりでに秩序が持続するような世界に、「意思」は生まれるであろうか?
生まれるはずはない。つまり、上向き(秩序維持に向かう方向:引用者注)を時間の向きだと自覚するような生命は存在するはずがないのである。 念のために付け加えておくが、エントロピー減少が自然法則に反するから、そのような世界がないのではない! そうではなく、エントロピー減少が成立する世界では、世界全体がひとりでに秩序に向かうから、 そこには自然選択というような進化の圧力が働く必然性がまったくないということである。
「時間」というものの捉え方には3つの分類がある。
A系列の時間 自分にとっての「今現在」という主観的な時間
B系列の時間 歴史年表のように過去から未来に向かって順番に並んでいる客観的な時間
C系列の時間 時間的な順序関係がない単なる配列
「A系列の時間も、B系列の時間も、実在しない。しかし、C系列は実在する可能性がある。」
という、哲学者マクタガートの結論は、C系列を時間と呼ぶことはしない我々にとっては「時間は実在しない」という宣言であった。
これは驚くべき宣言のように思われるかもしれないが、実際に「粒子の位置と速度は同時に確定することができない」というミクロの世界を扱う「量子論」では、 因果律さえ成立せず、我々が考える「過去・現在・未来」といった時間の向きや流れをもった「時間」は存在しないのだ。
これに対してマクロの世界を扱う「相対性理論」では、「時間」というものが「空間」と互いに変換しあうものとして、 「時空間」上の「世界線」として立ち現れてくる。 ここでは「時間」は実数軸であり、「空間」は虚数軸となるので、確かに「今現在の私」(原点)との関わりの中で「時間」が仮定されてくることになるのだ。
「時間」が実数で、「空間」が虚数というのは、体感的には逆のように感じるかもしれないが、 「今現在の私」に影響を及ぼすことができるのは「過去の他者」だけであり、 「今現在の私」が影響を及ぼすことができるのは「未来の他者」だけである。 という意味で「時間」は実数なのであり、 「今現在の私」に「今現在の他者」は絶対に影響を及ぼすことはできない。(なぜなら、誰も光速を超えることはできないから) という意味で「空間」は虚数なのである。
「時空間」上の世界線として立ち現れてきた、相対性理論に基づく「物理学的時間」には、「向き」や「流れ」は存在しない。 過去と未来は反転可能であるし、時空の入替えさえ可能なのである。
それでは、我々が実感する「人間的時間」においては、なぜ「時間」は「過去から未来へ」と流れていくのか?
冒頭で引用したとおり 「過去と未来は生命の『意思』によって生じる」 というのが、この刺激的な論考の結論なのである。
2007/4/2
「冷血」 Tカポーティ 新潮文庫
「おれたち、どこか狂ったところがあるに違いない」といったとき、ペリーは“したくない”告白をしていたのだ。 やはり、自分が“まともでない”と想像するのは“苦痛”だった−−とくに、何が狂っているにしろ、自分自身の責任ではなく、 “おそらくは生まれながらに背負わされているもの”のせいだとすれば。
「自分の反吐に窒息して死んだ」母親。自殺してしまった兄と姉。
唯一「あたりまえの生活」に入ったもう一人の姉への軽蔑と憎悪。
精神を歪められ、他人への思いやりを失ってしまった男たちによって引き起こされた一家4人惨殺事件に取材した、 これは迫真の「ノンフィクションノベル」なのであると聞けば、 なるほど「さもありそうな」物語だと思ってしまうのは、そのような事件が「日常茶飯」となってしまった現代に生きる私たちの錯覚である。
この物語が書かれた1965年当時、現実に起こった事件に取材しながら、犯人の心の襞にまで分け入るような、このカポーティの手法は、 極めて斬新なものであったはずなのだ。 そしてそのことが、カポーティの筆を走らせ、心を躍らせてしまったことで、物語は事件の背景描写という範囲を軽く飛び越えて、 犯人たちの生い立ちから始まる性格描写や、捜査員たちの推理の過程、事件が起きた田舎町の住民たちの生活に至るまで、綿密に語り尽くされていくのだ。
何もかも嘗め尽くさずにはすまないという、この粘着質の語り口を、カポーティは自らが一番楽しんでいるかのようなのであり、 そのため私たち読者は、しばしば筆者に置き去りにされてしまう感覚を味わうことになるのだった。
「ディックがバスルームのドアの外に立って番をしている間、おれは偵察に出ました。で、女の子の部屋を探しまわって、ちっぽけな財布を見つけたんです −−人形の財布みたいなのを。中には一ドル銀貨が入ってたんですが、なぜか、それを落っことして。銀貨は床を転がっていきました。転がって、椅子の下へ。 おれは膝をつかなきゃならなかったんです。そのときでしたね。自分が自分の外にいるみたいに感じたのは。 何かいかれた映画に出てる自分を眺めてるみたいだったな。それで気分が悪くなりましたよ。ほんとうにうんざりして。 ディックにも、金持ちの金庫がどうのこうのっていうあいつのおしゃべりにも、子どもの一ドル銀貨をくすねようと這いずりまわっている自分にも。 一ドルですよ。それを拾おうとして這いずりまわってるんだから。」
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