徒然読書日記200702
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2007/2/25
「みんなで国語辞典!」 北原保雄監修 「もっと明鏡」委員会編 大修館書店
気になる言葉を選び、それに自分なりの意味と解説をつける。例文を添えれば、国語辞典のパーツの出来上がり。 みんなでパーツを作って持ち寄ろう。どこにもない「辞書」ができるかもしれない。
という「もっと明鏡」キャンペーン。
この本は、そこに寄せられた11万通もの中から、「ユニークさが光る」1300作品を抽出したものです。
『ふるしかと・・・』
というのは、既にご紹介しましたが、
『ナチュラルしかと』
ごく自然に、何事もなかったかのごとくシカトすること。もはや自分が話しかけたのかどうかさえ、わからなくする、すんげぇシカト。
のほうが、言葉としての面白さでは負けていますが、やられた場合の堪えかたの「きつさ」は勝っているような気がします。
ちなみに、若者言葉の「作り方」の特質は、
@名詞の動詞化
『みのる』
みのもんた氏ばりにバリバリ働くこと。
『きょどる』
挙動不審な行動をとる。オドオドしていて落着きがない人を指す。
A極端に短縮する
『ちゃけば』
ぶっちゃけばなし。「てか、ちゃけばあれおいしいよね〜」
『ハゲる』
ハーゲンダッツに行く。@とAの「合わせ技」。
B言葉を合成する
『ねもじい』
眠い上にひもじいという非常に不健康な状態のこと。
『ばかっこいい』
バカみたいに格好良いこと。あるいは、バカだけど格好良いこと。
ということになるでしょうか?
最後に、なぜか妙に気に入ってしまった「言葉」をご紹介しましょう。
『のちかれ』
さて、その意味は?→
のちに彼氏になる(予定の)人のこと。
なんて、ちょっぴりせつなくて、グーだと思いませんか?
2007/2/22
「ひとり日和」 青山七恵 文藝春秋
折に触れて、わたしはその箱を見返してみて懐かしさにひたった。 そして、かつての持ち主と自分との関係を思い出して、切なくなったり一人笑いをしたりする。 その中の何かを手に取っていると、なんとなく安心するのだった。
他人の持ち物を「収集」して「空の靴箱」に入れてとっておく習慣。
それは
「望楼館追想」
(Eケアリー 文芸春秋)のような 「他人の愛するもの」への、粘りつくような「嫉妬」などではなく、
「取るに足りないどうでもいいようなもの」をコレクションする時に得られる、淡々とした「快感」なのであった。
本年度「芥川賞」受賞作品。
中国へ行くことになった47歳の「母親」と離れ、遠縁にあたる70過ぎの「おばあさん」の家に下宿することになった、20歳でフリーターの「わたし」。
2人の男友達との出会いと別れ。母親の再婚話。おばあさんの恋。
すべての出来事が、下宿している部屋の外にある「小さな庭の垣根の向こうに、一つ細い道を挟んで見える駅のホーム」 を行過ぎる人々でもあるかのように、他人事のように通り過ぎていく。
「濃く」関わって、結果的に傷付いてしまうことへの「恐れ」。
「薄く」関わっているだけなら、傷付くことはないという「錯覚」。
そして、ひととおり思い出を楽しんだあとには、こそ泥、意気地なし、せせこましい、などと自分をののしり自己嫌悪に陥ってみる。 そのたびに一皮厚くなっていく気がする。
誰に何を言われようが、動じない自分でありたいのだ。
文藝春秋で70ページという、芥川賞としてはいささか「長い」この小説は、 恐らく、ここに引用した「わずか10行」のうちに、折りたたんでしまうことができるように感じた。
これはそのための練習なんだと、箱のふたを閉めながら言い聞かせていた。
2007/2/20
「月に響く笛 耐震偽装」 藤田東吾 イマイル
法の建前だけを頑固に追求して、会社や家族の生活の場を失うなら、経営者としても、父親としても、男としても、失格だと思う。 我を通すだけが、人間の生きる道標でないことは十分に知っていた。他人の命と、自分の会社や家族の生活の場が失われることと、どちらが大切なことなのか、 何を守るべきなのか、今になってこの時に何をどう考えて結論を出したのか、長い時を超えて憶えている訳もない。憶えているのは会話だけだ。
「いろんなことがありましたね。五、六人しかいなかった会社があんなに大きくなって。そして、こんな状況でもたくさんのスタッフが残ってくれている」
「ほんとですね。奇跡、だったのかもしれませんね」
「隠蔽する、ということはできませんね。」
(一部省略)
「社長、もうこれ以上アパに言っても無駄です。国も、結局、ヒューザーの時から隠蔽するつもりだったんです」
という、社内からの反対の声を押し切ってまで、「アパ・グループ」の告発に踏み切った「イーホームズ」は、 大臣指定の民間業者では唯一の独立系の指定機関という、その「指定」を取り消されることで、皮肉にもその命運を絶たれることになった。
これは「国策捜査」であり、政府によるマスメディアを使った「情報操作」である、とする藤田社長の主張は一貫している。
これは『耐震偽装事件』ではなく『耐震偽装隠蔽事件』なのである。
ここに書かれてあることに「嘘」はないだろうと思う。
すべての「事件」が、実際に藤田社長の身の上に起こった「真実」であるのだろう。
しかし、
建築指導課長の小川富由は、本当にこれでよいと思ったのだろうか。認定プログラムと構造設計についての位置付けや知識の欠如を差し引いても、 そんなに簡単に、政治家伊藤公介の口利き圧力に屈するほど主体性を失ったのか、それとも山本局長を恐れたのか。 プログラムの問題を追及される事態になれば先輩官僚の失態に繋がる、これを怖れたのか。
会話の内容は、人伝に聞くことができても、心の中は窺えない。僕は、一度、小川富由氏から本音を聞いてみたい。
と憶測された「小川課長」も「嘘」を吐いてはいないような気がする。
それが藤田社長にとっていかに不都合なものであろうとも、それは「小川課長」にとっての「真実」なのであり、 同じ「事件」の裏表に、藤田・小川双方にとっての「真実」が、それぞれに別の姿となって見え隠れしているからこそ、 事態はこれほどに紛糾したのだろうと思うのだ。
どちらの「真実」に軍配を上げるべきなのか、私にはよくわからないが、一つだけ私にも言える「真実」を付け加えておくとすれば、
国土交通省建築指導課の小川富由課長は、私の同級生なのである。
2007/2/15
「独白するユニバーサル横メルカトル」 平山夢明 光文社
お坊ちゃまは先ほど、ゆっくり瞳をお開きになり、暗黒を刳り貫く蒼い月のような空を睨むと、またお眠りになられました。 二日ほど前、私をお見つめになり<まさか・・・>と呟かれたのが現在のところお声かけ戴いた最後でございます。
と「独白」を始めたのは、建設省国土地理院発行の「ユニバーサル横メルカトル」図法によって描かれた197枚の地形図で編纂さてれおりますところの、
私は小は道路地形から大は島の位置までを網羅した単なる地図なのでございます。
「なんで、地図が喋るんだ!」とお叫びになってみたところで、「ナビだって喋るじゃありませんか」と言われてみればその通りなのでして、 ましてこの地図は「独白」はできても、ナビのように「会話」することはできないわけですから、それほど気にする必要はないのでございます。
(『独白するユニバーサル横メルカトル』第59回日本推理作家協会賞受賞作)
腐りかけの象がいた。部屋中に肉が充満したような巨躯。ついているはずの鼻はなく、敷布のような耳もなかった。 あるのは冗談のように生えた頭部の毛と泣き腫らしたようなジクジクした眼、黴か苔で変色した皮膚だった。
体重が400キロを超え、全身がベトベトと濡れ光っている元サーカスの大食い男オメガは、どう贔屓目に見ても、 「皮を引き剥かれた象」か「巨大な胎児」のようだった。
「奴は俺達が始末したり、処理を請け負った人間を喰ってる・・・大食いだからな。」
(『Ωの聖餐』)
グロテスクな描写による凄惨なシーンが連続する「ホラー・スプラッター」の短編が8編。
しかし、その語り口の「非道さ」ほどには、読後の後味は「不味く」はない。
むしろ「ホラー・スプラッター」大好き人間には、「物足りない」くらいに「爽やか」なのではないだろうか?
語り口が絶妙であることが、その一因となっているだろうことは否定しないが、こうした読後感を生み出しているのには、わけがある。
『Ωの聖餐』における話の本筋は、「人間を喰う」オメガが、実は「リーマン予想」を解いてしまうほどの「知性」の持ち主である、というところにある。
『独白する・・・』においては、そもそも「喋る地図」が主役なのであり、ご主人様であるところのタクシー運転手が「連続猟奇殺人犯」であることなどは、 物語のほんの「色付け」に過ぎないと言ってしまってもよいくらいなのである。
2007/2/12
「匂いをかがれるかぐや姫」 原倫太郎 マガジンハウス
古代です。チャイルド宝に恵まれなかった親しいカップルは、特定の村に生きていました。 「神よ、指先のような子供さえ嫌だと思いません。すみませんが寄贈してください」
(少量法律助言者)
もちろん、「少量法律助言者」とは「一寸法師」のことである。
「一寸」は「ちょっと」と読んで「少量」と、「法師」は「法律助言者」と訳されている。
なぜ、このような「まだるっこしい」言い換えが行われたのかという「謎解き」をすれば、間に「英語」が介在しているからなのだ。
「一寸法師」→“A little, law mentor”→「少量法律助言者」というわけで、 どちらも、自動翻訳機を用いた「逐語訳」というところが「味噌」なのである。
この「やり方」を「かぐや姫」に適用してみると、
「かぐ」は“it smelled”
「〜や」は「〜や(いなや)」で“as soon as〜”
「姫」はもちろん“princess”なので、
「かぐや姫」→“As soon as it smelled, princess”→「それが匂いをかがれるとすぐに、プリンセス」になってしまうことになる。
「自動車ホールディング帝国の子供は、永遠の青春期島へ行く必要があり、真珠がドキュメンタリーになるお金のブランチを探すべきです。」
と言われた「車持ちの皇子」は、「蓬莱山へ行って真珠の実がなる金の枝を探して」来なければならない。
「ダブル逐語訳」という「離れ技」が生み出した、この「シュール」な世界は、 「たいていのことは怖くないという気分になれます」(宮部みゆき)というくらいに、「その不思議さが面白い」(北村薫)のだが、 よく考えてみると、「母国語」を異にする「外国人」とのコミュニケーションというのは、結局「この程度」のものではないのか?ということに気付く。
受験生時代に、「長文読解」のコツは「個々の単語の意味を気にすることなく、とにかく一度全文を通読してみることだ」と教わった覚えがあるが、 なるほどこの本も、「逐語訳」された「原文」や「英文」を無視して読んだ方が、躍動的なドライブ感覚の中で、 「その意は自ずから通ずる」ことを知るのである。
空は正午のように突然緩和し、そして、すてきな生物は自動車で降りました。皇帝のリテーナはお辞儀と矢印をセットアップしようとしたのですが、 ボディはパワーを失い移動しません。「おじいちゃん、おばあちゃん、忘れないライフタイム、この好意、無期限にさようなら、エネルギッシュ・・・」 「行かないでそれを送ってください、それが匂いをかがれるとすぐに、プリンセス。」おじいちゃんの音声はナンセンスなように聞こえます。 それが匂いをかがれるとすぐに、プリンセスを配置する自動車はお尻のライトの中に吸われるために、消失しました。
「首尾よくやって 首尾よくやります」
“It does successfully and does successfully”
「めでたし めでたし」
2007/2/7
「人体失敗の進化史」 遠藤秀紀 光文社新書
初潮は早くても、一向に結婚しない。恋愛は多様でも、けっして子供をもとうとしない。
といっても、これは、いま問題となっている「柳沢発言」からの引用ではない。
『不妊の女性には美人が多い』
そのこと自体の価値観は女性個人が決めることであって議論の対象ではないが、 現代の女性の新しい生き方は、客観的にホモ・サピエンスが進化させた生物学的な生涯構図とは、まったく合致していないことは明らかだ。 現代女性は、妊娠と泌乳という生物学的役割とは無関係に暮らすようになり、まさに大人になってからずっと、妊娠も泌乳も忘れて、 いつまでも“月の誘い”とともに生きるようになったのである。
「月に一度、確実に身体をトータルに消耗する」ことで、「女性にとって何ら生存に有利には働かない」と確信できるにもかかわらず「なぜ月経はあるのか」。
「動物としてのヒトの女性」は「死ぬまでのほとんどの時間を、子供の妊娠と授乳に費やしていた」はずで、 「月経は本来のホモ・サピエンスの女性を進化的に不利にするほどに、生涯にわたって頻繁に起きていたものではない」。
月経を毎月の当然の出来事に変えているのは、私たちヒトが、進化が想定する範囲を超えて、高度な社会生活を営み始めたからに他ならないのである。
「動物の遺体に隠された進化の謎を追い、遺体を文化の礎として保存する」
『パンダの死体はよみがえる』
(遠藤秀紀 ちくま新書)
という「遺体科学」を提唱する『解剖男』の新作は、「ヒト」の進化の歴史を紐解こうという試みだった。
「四本足の動物を完全な二足歩行に作り変え、恐ろしく器用な手に、地球史上前代未聞の巨大な脳を載せるという信じがたい改造をやってのけた」 私たちホモ・サピエンスは、
他の指と向かい合わせになることで自由を獲得した器用な「親指」や、
下肢から真上に立ち上がる上半身をがっちりと支える頑丈な「骨盤」や、
その下肢をバランスよく受け止める「土踏まず」の美しいアーチなど、
「ヒトをヒトたらしめる見事なまでの意匠」を獲得するという「設計変更」を繰り返してきた、進化の戦略の中で、
「水平」に流れていた血流を「垂直」に押し上げねばならなくなった「心臓」や、
90度回転して立ち上がることで、自らの重みで押しつぶされることになった「椎間板」や、
歩くことから解放されて、逆に休むことなく緊張を強いられることとなった「肩こり」に、悩まされることになったのである。
私が心から愛でておきたいのは、自分たちが失敗作であることに気づくような動物を生み出してしまうほど、 身体の設計変更には、無限に近い可能性が秘められているということだ。
2007/2/5
「ハサミを持って突っ走る」 Aバロウズ バジリコ
あるテレビ番組のオープニングにこういうシーンがあった。主人公の女性がスーパーマーケットにいて通路を急いでいる。 肉のケースのところで立ちどまると彼女はステーキを取り上げて値段を確かめる。それから目をむいて肩をすくめ、それをカートに放りこむ。
ぼくの感じもそのようなものだ。もしちがう生き方があったのなら、そのほうがよかったかもしれない。 しかし目をむいて肩をすくめる以外に、なにができるんだろう。
ぼくは肉をカートに投げいれて、先へ進む。
大学教授でアル中の父親と、詩人で精神病の母親の「結婚生活」が破綻して、オーガステンは、 母親のかかりつけの精神科医フィンチ先生の家に預けられることになる。
「その家はピンク色で歪んでいるようにみえた。」
「こんな不潔なところは、はじめてだった。とんでもないショッキングな住人たちだ。」
自らが「ゲイ」であることを自覚しているオーガステンの、これは少年時代の自叙伝なのであるが、 思い切って「カミング・アウト」してみても、そんなことはまるで問題にされないどころか、 オーガステンが一番「まとも」に感じられるほどに、世の規範からは相当に「ズレた」家族たちに取り囲まれた、 「滅茶苦茶な」生活が展開されていくことになる。
訳者あとがきにもあるように
「笑いをもって突き放さないかぎりは文章にするのが不可能な、それほど深刻な出来事だった・・・だからこそか、明るく健康的で風通しがいい。」
のかもしれないが、これは恐らく、オーガステン本人にとっては、紛れもなく「見たまま、聞いたまま」の「生い立ちの記」なのであるに違いない。
(フィンチ家からは、事実無根だと告訴されたのではあるが)
「なにかを追っかけてるように感じることって、ない?なにか大きなものを。 わかんないんだけど、なにかあんたとあたしだけにしかみえてないもの、みたいなんだ。それを追っかけてんの、走って、走って、走って」
「そうだね、ぼくたちは確かに走ってる。ハサミを持って突っ走ってる」
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