徒然読書日記200701
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2007/1/30
「悪人」 吉田修一 朝日新聞
世間で言われとる通りなんですよね?あの人は悪人やったんですよね?その悪人を、私が勝手に好きになってしもうただけなんですよね? ねぇ?そうなんですよね? (完)
ということで、朝日新聞の連載が、第250回で終了。
連載が始まってすぐに、
「あなたの人生のお値段は?」
という記事でご紹介したのが、昨年の4月ですから、もう最初の頃のストーリー展開はうろ覚えなのですが、これでも新聞の連載としては短い方だと思います。
思わぬ展開から、「出会い系」で出会った女を殺してしまった男が、別の「出会い系」の女と「逃避行」を続けるというのが、後半部分の主筋。
逃げる男と女の、それぞれのこれまでの「人生」や「家族」の物語に、 殺された女の「家族」の、殺されたきっかけを作った別の男に対する怨讐のドラマが重なって、なかなか目の離せない展開。 最後は、誰が本当の悪人なのかと、結構感情移入してしまった私でした。
本来は夕刊に連載されているのですが、金沢では夕刊はないので、朝刊に掲載。朝っぱらから、結構疲れるお話でもありました。(性描写が結構過激なんです。)
挿画は「束芋(たばいも)」。
ある「モノ」から、人間のある「部分」が「生えてきた」かのような、まとわりつくような「キモかっこよさ」が、基調のクールな作品。 「なぜ、切り抜いてとっておかなかったのか」と悔やむほどの挿画は、「ミーナの行進」(小川洋子@讀賣新聞 挿画は寺田順三)以来でした。
ちなみに「束芋」の本名は「田端綾子」。 三姉妹の真ん中なので、「たばあね」に対する「たばいも」だそうです。
2007/1/28
「誤読日記」 斎藤美奈子 朝日新聞社
<うるわしき いとしの君と デイトする 心ときめく 宵のひととき>
<ほほよせて 好きよなんでも あげるわと ささやく君の 若さいとしき>
だれかなんとかいってやってよ
と、「国語の不得意な中学生のラブレター」か「質の悪い結婚詐欺師の口説き文句」のレベルと、こきおろされているのは、
「KOiZUMi 小泉純一郎写真集」(双葉社・2001年9月・1800円)
なんせ冒頭から
私が総理になってから、皆さんの愛ある応援には、感動した。
日本女性全てが私にとり、ファーストレディだと思う。
私にとり、この愛こそが原動力だ。
恋は心から感動する。
そして、恋はかくも甘く、せつないものだ。
皆さんもおおいに恋をしよう。
私、小泉も愛する皆さんのため、日本を男女共同社会にする。
男も女も仕事、家事、育児を分かち合っていこうと、
男女平等の社会へ、私は必ず変える。
FOREVER LOVE 愛は永遠である
TO FIRSTLADY 小泉純一郎
なんだそうですから、悪い冗談だとしか思えませんが、こんな本を買って読む人がいるんでしょうか? まあ、あの「ペ」の年収の大部分も、日本での売り上げだそうなので、結構売れたと聞いても、私はさほど驚きませんが。
というわけで、話がずれましたが、この本は
主だった新刊は名だたる書評家の先生方がメインの記事で取り上げる。 そのため、この小さな欄では一般的な書評欄には載りにくそうな本を優先し、あえて「誤読」にこだわった
斎藤美奈子が、内容のいかんを問わず、無理やり読んだという「新刊書」が175冊。
その本が「どんな本」で「誰が書いた」のかなどは、ほとんど問題ではなく、 斎藤美奈子の「鑑識眼」の「冴え」だけを、純粋に楽しむための本なのです。
最後に、もう一冊、どうでもよさそうな本をご紹介しておきましょう。
大丈夫、大丈夫。「もしも」なんて心配している人のところに招待状は舞い込んだりしないから。 万一、招待状が来たとしても、それからあわててマナーブックで勉強したんじゃ間に合わない。どっちにしても、どこに読者がいるのか不明な実用書。
『もしも宮中晩餐会に招かれたら』(渡辺誠 角川oneテーマ21)
2007/1/19
「名もなき毒」 宮部みゆき 幻冬舎
「こんなにも複雑で面倒な世の中を、他人様に迷惑をかけることもなく、時には人に親切にしたり、一緒に暮らしている人を喜ばせたり、 小さくても世の中の役に立つことをしたりして、まっとうに生き抜いているんですからね。立派ですよ。そう思いませんか」
「私に言わせれば、それこそが“普通”です」
「今は違うんです。それだけのことができるなら、立派なんですよ。“普通”というのは、今のこの世の中では“生きにくく、 他を生かしにくい”と同義語なんです。“何もない”という意味でもある。つまらなくて退屈で、空虚だということです」
だから怒るんですよと、呟いた。
「どこかの誰かさんが“自己実現”なんて厄介な言葉を考え出したばっかりにね」
青酸カリによる「連続無差別殺人事件」を、被害者の家族との関わりのなかで描いていく「縦の糸」に対し、 次々とトラブルを起こすためクビにしたアルバイトの女性が途方もない悪意に満ちた報復に奔るという「横の糸」。
二つの糸が、日常の生活の中で、微妙に絡まりあっていくうちに、普通の人間が“普通”に生きていこうとするときの“生きにくさ”が、 そこここに“綻び”のように顔を出してくる。
「幸せなんてね、あっけなく壊れちゃうものなのよ。ほーんとにそうなの。でもあんたたち、それを知らないでしょ。身に沁みないと、わかんないんでしょ?」
突然、彼女の声が怒りに炸裂した。
「だから、あたしがわからせてやるって言ってるのよ!」
悪意という名の『毒』に侵された女が、呪詛の言葉を吐き出すこの修羅場も、始まりはごく“普通”の、 どこの職場にでも起こりうるような“諍い”からだったのである。
だからこそ“怖い”のではあるけれど。
「だって、最初はこうやれって言ったじゃないですか。だからそのとおりにしたのに。わたしのミスじゃないですよ」
「そんなの、聞いていません」
「どうしてわたしばっかりのせいにするんですか?わたしがアルバイトだからですか?そんなの、不公平です」
2007/1/15
「私家版・ユダヤ文化論」 内田樹 文春新書
(「なぜ、ユダヤ人は迫害されるのか」)
この問いに対しては、「ユダヤ人迫害には根拠がない」と答えるのが「政治的に正しい回答」である。 だが、そう答えてみても、それは「人間はときには底知れず愚鈍で邪悪になることがある」という知見以上のものをもたらさない。 それは私たちにはすでに熟知されていることである。
この問いに対して、「ユダヤ人迫害にはそれなりの理由がある」と答えるのは「政治的に正しくない回答」である。 なぜなら、そのような考え方に基づいて、反ユダヤ主義者たちは過去二千年にわたってユダヤ人を隔離し、差別し、追放し、虐殺してきたからである。
どちらを選んでも、身動きが取れなくなってしまうというユダヤ人問題を論じるときの、この「罠」を回避するためには、
「ユダヤ人迫害には理由がある」と思っている人間がいることには何らかの理由がある。その理由は何か?
というふうに「問い」を書き換える必要がある。
「問題の次数を一つ繰り上げる」ということ。
これこそが、
「誰もが感じていて、誰も言わなかったことを、誰にでも分かるように語る」 (@
「死と身体」
医学書院 )
「言われてみるとそう思う」という「痒いところ」への手の届き方が絶妙の按配 (@
「女は何を欲望するか?」
径書房 )
の、内田樹の思考のスタイルであり、いつものやり方なのである。
では「なぜ、ユダヤ人は迫害されるのか」
それは「反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりに激しく欲望していたから」
反ユダヤ主義者がユダヤ人を欲望するのは、ユダヤ人が人間になしうる限りもっとも効率的な知性の使い方を知っていると信じているからである。 ユダヤ人が人間にとってもっとも効率的な知性の使い方を知っているのは、時間のとらえ方が非ユダヤ人とは逆になっているからである。 そして、そのユダヤ人による時間のとらえ方は、反ユダヤ主義者にとっては、 彼らの思考原理そのものを否定することなしには理解することのできないものなのである。
ユダヤ人とは「そのつどすでに遅れて登場するもの」(@レヴィナス)であり、
自分たちが「遅れて世界に到来した」という自覚によって、他の諸国民との差別化を果たした。
これが、内田樹の結論(めいたもの)なのであった。
2007/1/10
「ワンコイン悦楽堂」 竹信悦夫 情報センター出版局
「じぶんはどうしてこんなバイト、してんのん?」・・・
浪見男が樹理絵に最初に声をかける場面にでてきます。二人称の代名詞に「じぶん」を使い、 本来の大阪弁の「なんで」ではなく「どうして」を使っているあたりに、鋭い大阪弁感覚がうかがえる。 ふだんは遠慮なく大阪言葉を話していても、可愛いな、と思う女の子に対しては、微妙に言葉遣いが「標準語化」するのですね。そこをよくつかまえている。
「もんた牛乳店」の一人息子「浪見男」と、ほとんど何も考えていない素直な性格の娘「樹理絵」は、親の認めぬ交際を重ね、ついに駆け落ちしてしまう。 もちろんこれは、モンタギュー家のロミオと、ジュリエットの悲劇の物語のパロディである。 (『てなもんやシェイクスピア』 島村洋子 角川書店)
このような「ワンコイン、500円以内で買える古本、バーゲン本」のみを対象に書評するという、 著者が設定した特異なルールに基づいて選び出された本が71冊。 その本の紹介や感想のみにとどまることなく、縦横無尽に飛び回るその知識の幅には、圧倒されるものがあるのだけれど・・・
私がこの本を読んだのは、書評を読みたかったわけではなかった。
「灘高」で驚愕を与えた高橋源一郎を「作家」に向かわせ、
「東大」で影響を与えた内田樹を「ユダヤ研究者」に導いた
「伝説の小学生」早熟の天才・竹信悦夫の片鱗に触れたかっただけなのである。
高橋−−竹信は、小学生の頃から灘に遊びに来ていたらしいんです。詳しくは知らないんだけど、要するに将来は受験して入学するつもりで、 灘に出入りしてたらしいんだよね。文芸部とかに遊びに来ていたんじゃないかな。僕が入った時はクラスは別だったんだけど、 「竹信君っていうのは、何がどうすごいのか」と聞いたら「とにかく本を読んでいる、伝説の読書家」だと。「何を?」「何でも」って(笑)・・・
内田−−後知恵なんだけどさ、彼の中ではそれがかなり誇りになっていたんだと思う。でもね、割と痛々しげな声で、 「でも、内田、早熟の天才であるというのはそれほどむずかしいことじゃないんだ。ある程度の本を読んでおけば中学生くらいなら突出した存在にはなれる。 でも早熟には早熟のピットフォールがあって、俺はそこにはまったんだ」というようなことを聞いたことがある。
2007/1/5
「悪党芭蕉」 嵐山光三郎 新潮社
俳諧は俗文学なのである。罪人すれすれのところに成立した。
芭蕉を「悪党」としてしまったのは、申し訳ないが、そういう意味であると了解願いたい。 芭蕉は危険領域の頂に君臨する宗匠であって、旅するだけの風流人ではない。芭蕉の凄味は連句の席でぬっと顔を出す。
@ 秋風に吹れて赤し鳥の足 洒堂
A 臥て白けし稲の穂の泥 諷竹(之道)
B 駕篭かきも新酒の里を過兼て はせを
病身をおして来てくれた芭蕉を渡り鳥にたとえて気遣うように見せながら、実は、近江から大阪にやってきて苛められていると自らを悼む「洒堂」に対し、 「赤し」に「白けし」と向きつけて対抗し、それなら自分は風に吹き倒された稲穂のようなものだと怒りを見せる「之道」。 鳥と稲穂が睨み合う道を通りかかった「芭蕉」は、新酒の香りにひかれて、しばし立ち止まる。いくら白けていたって、通り過ぎるわけにはいかないのである。
「芭蕉」は、愛弟子「洒堂」から、大阪の俳壇を仕切る「之道」との仲裁を頼まれ、病身をおして無理を重ねたことがたたり、大阪で客死している。
事情を知らぬものから見れば、見事な秋の情景が浮かび上がってくる、こうした「連句」の応答に、 弟子たちとの憎愛や確執、はたまた怨念までが込められているのである。
第34回泉鏡花文学賞受賞作品。
『奥のほそ道』は余技に過ぎない「俳諧師」芭蕉の本来の凄味を知ることのできる、頗るつきの逸品である。
人が生きていく作法には伝統的なしきたりがあり、基礎をふまえつつ、間違いがないように慎重にすすめる。 たとえば茶道がそうである。よどみなく茶事がすすんでいくとき、人はふと、「ここで場をひっくりかえすというようなとんでもないことをしてみたい」 と思う魔の瞬間がある。・・・
歌仙ではそれをやる。ただし正客に茶をかけるという不粋さではなく、風雅をもってひっくりかえし、その場を戦場と化すことぐらいお手のものだ。・・・
したがって、歌仙にはまると、つみかさねではなく、きりかえしの技がうまくなる。転換の妙である。・・・
芭蕉はその仕切り役であって、仕切りによって俳諧はいかようにも動くのである。この思い切りのよさを、自分の人生にしてしまうと、失職する。
2007/1/4
「ポンペイの四日間」 ロバ−ト・ハリス 早川書房
湾の対岸のはるか彼方、アペニン山脈の山腹の松林のなかで、水道橋はセリヌスの泉の水を取り込み、西方へと−−曲がりくねった地下水路を伝わせ、 何層にもなったアーチ道の最上段に流して小さな谷を越えさせ、巨大なサイフォンを通して渓谷を渡らせ−−はるばるカンパーニアの平野まで運んできている。 そうして、ヴェスヴィオ山の反対側をまわりこむと、南に向かってナポリの海岸に達したあと、最後にミセヌム岬を貫通して、 埃っぽい軍港都市に水を送り届けている。距離にしておよそ95キロ、その全長にわたって、落差は100メートルごとにわずか5センチと微々たるもの。 アウグスタ水道は世界最長の水道であり、ローマの何本かの大水道よりも長いし、構造もはるかに複雑だった。
「ああ、それにしても壮大な構造物ではないか、アウグスタ水道は。」
前任者が謎の失踪を遂げたため、「水道管理官」(そんな官職があるんですね)としてローマから派遣されてきたアッティリウスは、 親子代々が「水道技官」という「水によって築かれた名門」の若き4代目だった。
着任早々、その水道の流れが弱くなるという大問題に直面し、アッティリウスは、修復のため『ポンペイ』へと向かう。
時は「西暦79年8月」、そう、ヴェスヴィオ山の噴火を目前にした『あのポンペイ』なのである。
我々の誰もが「史実」として認識している『その日の惨劇』を、当然知りうべくもない彼にとっては、 水路から漂いだす硫黄の臭いや、足元の石畳の微細な揺れの一々が「スリル」に満ち溢れているのであり、 そこに、水の利権をめぐる欲望と、成り上がりの人間模様が加われば、これはもう極上の「サスペンス」なのである。
体にぴったり合った穴のなかで、彼らの肉体は朽ち果て、それとともに、何世紀もが経過するうちに、かってそこに都市があったという記憶も朽ちていった。 ポンペイは、完璧な空洞の形を取る市民たちの町になった。しっかりと身を寄せ合った者、孤立した者、吹き飛ばされた服、頭上に持ち上げられた服、 大切な物をつかもうと虚しく伸ばされ、何もつかめずにいる手。町の屋根の高さに、無数の真空の穴が浮かんでいた。
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