徒然読書日記200606
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2006/6/16
「プリオン説はほんとうか?」 福岡伸一 講談社ブルー・バックス
不溶性の凝集タンパク質が、経口的に体内に入った後、消化を免れることはともかくとして、消化管を突破し、 末梢のリンパ組織で増殖してから全身に広がり、最後は、脳血液関門を越えて脳に侵入して大増殖する、というストーリー自体がにわかに信じられなかった。
羊の「スクレイピー病」、牛の「狂牛病」、人の「ヤコブ病」。
自覚症状もないまま、何十年もの潜伏期間をかけて、ある日突然、脳の神経細胞を侵し、スポンジ状に変えてしまう、致死率100%のこの病は、 感染した動物の肉を食べることによって伝染る。(草食動物である牛が狂牛病になったのは、病牛の肉骨粉を与えられたことによる。)
多くの研究者がその謎の解明に挑みながら、どうしても見つけることのできなかった、その「病原体」の正体は、 「ウイルス」でも「細菌」でもなく、病気にかかった動物の脳に蓄積している「タンパク質」自体なのではないか?
この「タンパク性感染性粒子」は、発見者スタンリー・プルシナーにより『プリオン』と名付けられた。1980年代初頭である。
遺伝子を持たない「タンパク質」という物質が、それ単独で感染し、増殖し、生命の情報を受け渡すなどということは、生物学の中心原理に反する。
しかし、加熱処理、殺菌剤、放射線照射など、通常のウイルスには認められない「抵抗性」を示す、この不死身の病原体は、 「タンパク質」であれば説明可能な、いくつもの「実験データ」の集積もあり、「異端」から「正教」へとその立場を固めていった。
1997年、プルシナーは「プリオン説」の提唱により、「ノーベル生理学・医学賞」を単独受賞する。その前年、 「狂牛病」は、牛から人へも感染しうるという驚愕の事実が、イギリス政府によって公式に発表されていた。
『死の病原体プリオン』(Rローズ 草思社)
しかし、プリオン説はほんとうにただしいのだろうか?
大学院生の頃に、初めて「プリオン説」を耳にし、“too good to be true”(できすぎ仮説だ)と感じたという著者は、 前半で「仮説」の論拠をていねいに跡付けながら、後半では一転、論拠の矛盾を突き崩していく。
「タンパク質」は感染を引き起こす病原体なのではなく、やはり、感染の結果として生成された物質なのではないか? という、「プリオン説」よりは、よほど「素直な」仮説に立っても、「実験データ」に矛盾することなく説明できることを示して見せるのである。
(実際、「プリオン説」支持派の、このところの応戦は、「小さな嘘を吐き通すためには、沢山のより大きな嘘を吐き続けなければならない」 といった感もあるのだ。)
とはいえ、著者もいまだに「病原体」としての「ウイルス」を見つけ出すことはできていない。しかし、
「教科書に載るような定説を疑ってかかる」という、公的にも私的にも「研究資金を集めるのが容易でない」テーマを研究計画申請し
「広大な海辺の砂浜から砂金を拾い出すような」まったく報われることがない可能性も高い努力を積み重ね
「賽の河原の石積みにも似た作業」に日夜、真摯に取り組んでいる。
なぜならば、現状では「プリオン説」に立っているため「輸入牛肉」の安全性は「異常型プリオンタンパク質」が検出できない、ということで判定されているが、 もし「病原体」が未知の「ウイルス」であるなら、「異常型プリオンタンパク質」の存在量と、「狂牛病」の「感染力」の間に対応関係はないことになるからである。
にもかかわらず、証拠としての「ウイルス」を発見して、突き付けでもしないかぎり、対米追従の「日本政府」はアメリカの外圧により、 早晩、米国産牛肉の輸入再開に踏み切る可能性が非常に高いのだから。
『もう牛を食べても安心か』(福岡伸一 文春新書)
2006/6/13
「陰日向に咲く」 劇団ひとり 幻冬舎
これからもときどきで構いません。今までのように電話を下さい。・・・
眠れない夜、私は何の絵本を読んであげたのか教えてください。・・・
その日の貴方に、その日の私が言った言葉を聞かせてください。
私はよい母親でしたか。私は貴方を幸せにできましたか。
聞かせてください。貴方と私が生きてきた話を聞かせてください。
ギャンブル依存症で、多重債務者となってしまった愚かな俺は、自殺することさえもできず、ついに意を決し「オレオレ詐欺」を実行しようとするのだが・・・
「劇団ひとり」の演ずる「一人芝居」というものが、どのようなものであるのかは知らない。
が、それはおそらく、
腹を抱えて笑い転げているうちに、いつの間にか眼に涙を溢れさせていることに気づき、そんな「自分」をいとおしく感じることが、優しい気持ちにさせてくれる。
そんな「芝居」であるのだろうと思う。
ホームレス生活を夢見る「サラリーマン」
マイナーなアイドルに全てを捧げようとする「男」
もて遊ばれていることに気づかぬ振りをする「女」
「売れない芸人」と「ほれた女」のそれぞれの一途な恋
どれを取ってみても、それぞれが「見栄え」のしない「愚かな生き様」の見本のような話ばかりで、 笑ってしまう以外にないほど「哀しい」エピソードに満ち溢れているのだけれど、 他人から見れば「情けない」ほどの「取るに足りない人生」であろうとも、 「彼」や「彼女」にしてみれば、それこそが「彼らの人生」なのであり、
「自分の人生の中では、誰もがみな主人公」
であることも、また間違いのない「真実」なのである。
クライマックスにおいて、彼らに浴びせられる「スポットライト」。
それは、これまで誰にも注目されることがなかった『陰』のような人生に、一瞬差し込んだ日の光を浴びて、 彼らがおずおずと咲かせて見せた『一輪の花』を、浮かび上がらせてくれるのだけれど、 それはまた、彼らが、彼らの「真実」を、彼らなりに「精一杯」生きてきたからこその『証し』であることも、また確かであるのだろう。
2006/6/10
「あなたに不利な証拠として」 LLドラモンド ハヤカワ・ミステリ
「恐怖を抱えていたら、自分を赦すことも希望を持つこともできない。多くのことを知っているつもりでも、本当は少ししか知らない。 何もかもわかっている者などいないと理解するまで、幸せには生きられない。自分が強いとうぬぼれてはならない。 人は自らの弱さを抱きしめるとき、強くなれる」
2005年「アメリカ探偵作家クラブ賞」「最優秀短編賞」受賞作。
ルイジアナ州バトンルージュ市警に勤める5人の「女性警官」の、それぞれが「主人公」となる短編が9編。
警官が犯した「殺人」と職務中の「殉職」、「幼児虐待」、残虐な「レイプ」、無残な「事故死」などなど、 彼女たちが立ち向かうことになる「事件」の「現場」は、著者の「実体験」に基づく部分があるとはいえ、あまりにも「臨場感」に満ち溢れており、 その「生なましい」記述は、時にグロテスクでさえある。
しかし、それが彼女たちの「日常生活」の一部であることも、また事実なのであり、事件と平行して描かれていくことになる、それぞれの、 些か「複雑な事情」を抱えた「人生の軌跡」が、時に交錯しながら、物語は進行していく。
冒頭の「言葉」は、ある「事件」を起こし、「逃亡生活」を送ることになった主人公に対し、隣人の老女が語りかけたもの。
ただし、本文中では「スペイン語」のままなので、主人公には(もちろん読者にも)その意味は理解できず、 主人公が「心魅かれている男」の「短すぎる通訳」だけが示される、という「心憎い仕掛け」になっている。
「きみはあきらめが早すぎるし、努力しすぎる」
心配しなくても、その後の「展開」の中で、これだけで十分「意味」は伝わることになっているのである。
ちなみに、表題の意味は、いわゆる「ミランダ警告」の一節。
「あなたには黙秘する権利がある」
「あなたの発言は法廷で不利な証拠として扱われる可能性がある」
という、刑事ドラマでお馴染みの「あれ」である。
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