徒然読書日記200511
サーチ:
すべての商品
和書
洋書
エレクトロニクス
ホーム&キッチン
音楽
DVD
ビデオ
ソフトウェア
TVゲーム
キーワード:
ご紹介した本の詳細を知りたい方は
題名をコピー、ペーストして
を押してください。
もちろん購入もできます。
2005/11/24
「ダンボールハウス」 長嶋千聡 ポプラ社
工法としては、小屋型、テント型、小屋+テント型、その他(寝袋型、ロープ型、自然素材型などがある。)に分けられている。が、十数台の冷蔵庫で囲われ、中が収納に利用されているものさえある。つまりいろいろ様々なものがあるのだ。 賃貸されているものもあれば、ルームシェアもある。寮のようなもの(寮母までいて、食事も供される)さえある。
ゴミを拾ってきて自分一人で建てる者もいれば、主要な材料は購入してきて、仲間に手伝ってもらって建てる者もいる。 プロの「建築家」の作品さえある。もちろん有料である。(総工費5万円の豪邸は、ビニールシートは「青」ではなく、高級品の「シルバー」を使用している。)
ひょっとしたら、彼らは家を失ったのではなく、家を獲得したのであり、私たちの方こそが家を失おうとしている「ホームレス」であるのかもしれない。
家を「所有」するわれわれは、商品住宅を「購入」したり、既存の物件を「賃貸」によって暮らすのに対し、ホームレスの彼らこそが工業部材をリサイクルしながら、自らの住処をセルフビルドで「構築」しているという逆説だ。 そこには現代における原始の小屋が見てとれるだろう。 五十嵐太郎
2005/11/21
「東京タワー」 リリー・フランキー 扶桑社
「安心し過ぎて気にも止めなかったこと。あまりに日常的で退屈だと思ってたこと。優しくいたいけどいつも後回しにしてきたこと。 それは、オカン。それぞれの人にオカンはいて、それとなく違うけど、どことなく似ているオカン。本当に大切な何かが、こんなに身近にあるなんて 気付かせてくれたリリー・フランキー。あなたの考察力と文章力に参りました。05年、堂々の第7回みうらじゅん賞受賞作品!」(イラストレーター みうらじゅん)
わたしも数年前に母親を癌で失っているので、所々に表れる何げない描写に「母親に対する息子」の感情というものは、誰にも共通するものなんだなぁとは感じましたが・・・ 「泣ける!」という評判があまりにも高かったので、思うところあって「わざわざ泣きに走った」身としては、正直いって「泣けなかった」のがある意味で「ショック」でした。 こんな本で「泣ける」人というのは、「心が美しい」のでしょうか?それとも・・・
母親が病気と知ってから誘った、敦煌への旅行への「お誘い文」の「後悔先に立たず」という言葉に、娘が付けた「後ろに立つ後悔の図」というイラストを、なぜか思い出しました。
2005/11/20
「空より高く」 重松清 読売新聞
読売新聞の連載終了。
ムクちゃん――。ひたむきで、がむしゃらで、とんちんかんで、周囲をズッコケさせてばかりの彼女と出会えたことが、作者にとってはなによりの幸せだった。
なんだ、そうだったのか。作者も同じ気持ちだったんだと心から納得。読んでいなかった人には何のことやらでしょうが・・・僕も心から声援を送っておりました。
2005/11/17
「おことば」 島田雅彦 新潮社
政府の政策に根本的な変革がおこなわれないかぎり、このままでは、遅かれ早かれ行きづまってしまうのではないだろうか。そうなると、社会事業すなわち政治活動ということにならざるをえない。 しかるに、皇族は選挙権も持たないし、いわんや政治活動をしてはいけないことになっている。政治活動をするためには皇籍離脱という問題と対決せねばならぬ。 皇籍離脱をしても社会事業に専心すべきだろうかということは、わたくしにとってじつに重大な問題であった。 三笠宮崇仁(昭和三十一年四月)
故高円宮はプライベートの席で「天皇という仕事」を「一、生まれてくること 二、結婚し後継者を残すこと 三、国民のためになるなら、率先して死ぬこと」に尽きると語ったという。 「存続」することのスペシャリストとしての「皇族の気概」が窺える「おことば」である。
2005/11/13
「素数の音楽」 MDソートイ 新潮クレストブックス
「1と自分自身以外では割り切れない正の自然数」というのが、この本の主人公ともいうべき「素数」の定義である。しかし、この実に「単純な定義」に従えば、どのような数字であろうとも、素数どうしのかけ算として表せることになる。つまり、「素数」とは数字の「元素」のようなものなのである。
ではその「素数」は、全部で一体いくつあるのか?それが「N個」あったとして、そのN個の素数を総て掛け合わせた数に1を加えた数を作る。するとこの数は、N個あるどの素数で割っても1余って割り切れないことになるから、素数である。そう、「素数が無限にある」ことは簡単に証明できる。
ところが、ある素数の次の素数が何であるかを示すことは簡単ではない。これまでに発見された素数を表にしてみても、そこにはいかなるパターンも認められない。1000番目の素数を予測する公式を見つけられずに来た数学者たちの、神秘に満ちた数「素数」の美しさに魅せられた苦闘の歴史がそこにあるのだ。
19世紀ドイツの天才数学者ガウスは、たとえば10万以下の素数が何個くらいあるのかを予測する近似式を編み出した。そして、その弟子リーマンは、素数の分布のしかたの「予想」を残した。 300年来の難問「フェルマーの定理」が解けた今、数学界に残された未解決の歴史的難問「リーマン予想」である。
「ゼータ関数の風景」がどのような眺望であり、素数の「奏でるオーケストラ」がどのような音色であるのかを、体感できるほどの才能を残念ながら持ち合わせてはいないが、幾多の天才数学者の果敢な挑戦の軌跡(あぁ、中でも、悲劇の天才ラマヌジャン!)を辿るだけでも、その醍醐味を味わうことは出来る。
2005/11/10
「健全な肉体に狂気は宿る」 内田樹 春日武彦 角川Oneテーマ21
春日「戦争中もそうだし、それから精神病院で長いこと入院しているような患者さんでも、死にかけるとよくなったりしますからね。あれを見てると、そうか、身体の方にゆとりがあるから狂ってるだけなんだなって。」
内田「へえ、死にかけると治るんですか。病気になるのはそれでも余裕があるってことですね。なるほど、身体がしにかけると心は治る、と。」
という会話が書名となった、精神科医春日武彦と、内田樹との対談。
春日が、鬱病の原因の大半が、「未来を先取りして失敗して、もはや取り返しがつかないと悔やむ」という「取り越し苦労」にあることを指摘するや、内田は「未来も過去もないんだ。過去がリピートしているわけですね。」と当意即妙に返し、 新しい行為によって経験の文脈が変われば、経験の解釈も自ずと変わること、つまり「過去って取り返しがつくものでしょ。」と断じる。
互いの意の汲み方が深すぎて、話がぶつ切れに右往左往しているような部分もあるが、「日々の悩み」解消のヒントに溢れた快著である。
2005/11/7
「下流社会」 三浦展 光文社新書
「下流」とは、単に所得が低いということではない。コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低いのである。 その結果として所得が上がらず、未婚のままである確率も高い。そして彼らの中には、だらだら歩き、だらだら生きている者も少なくない。その方が楽だからだ。
団塊ジュニア世代の「下流」の趣味として著者は、パソコン・インターネット、AV機器、テレビゲームを挙げる。つまり
パソコンというと「デジタルディヴァイド」と言われて、お金のある人は持てるが、お金のない人は持てず、よって所得によってパソコンを使えるかどうかに差がつき、ひいては情報格差がつく、という懸念があった。 しかし今やパソコンは接続料さえ払えば何でも手に入る最も安い娯楽となっており、低階層の男性の最も好むものになっているようである。
というわけで、「ソフトを使いこなし、それで人を説得できるか」というディヴァイドはあっても、パソコンの所有自体にもはや階層差はなく、趣味がパソコン・インターネットである者はむしろ「下」ほど多いということなのである。 (女性の「下」は歌ったり踊ったり、絵を描いたりして、サブカルチャー的な趣味に「自分らしさ」を見出すという、面白い指摘もされている。)
「一流」のマーケット・アナリストが著しただけに、この本には様々な「意識調査」の実施結果とその「鋭い分析」があふれている。著者の命名になる「下流」の人びとは、このような「意識」をもって日々をすごしているという指摘は、いちいち見事である。 しかし、この本を「このような意識をもって日々を生きている人(あなた)は『下流』である」というふうに読んでしまうことは、とても危険であるようにも感じた。
「あくせく勉強してよい学校やよい会社に入っても将来の生活に大した違いはない」という「成功物語否定的」な価値観をもち、「自分らしさ志向」が高く、「面白い人生を歩みたい」と考え、 「一人でいるのが好き」で「他人や社会に干渉されずに生きたい」「こだわりが強い」のが「下流」であるという位置づけをうけるのなら、「下流」もなかなかよいのではあるまいかと思うのである。
(だって「上」が目指す「目標を持って計画的に生きたい」「てきぱきした」「品のよい」「人づきあいが上手」で「社交的」な生き方って「疲れそう」じゃありませんか?)
2005/11/6
「ジーニアス・ファクトリー」 Dプロッツ 早川書房
ノーベル賞受賞者に代表される天才たちの遺伝子を残すべく、1980年に創設された精子バンク「レポジトリー・フォー・ジャーミナル・チョイス」。 1999年に資金難により閉鎖されるまで、200人もの「天才予備軍」が誕生しているというこの施設の実態は何であったのか? 簡単なプロフィールのみでコードネームで呼ばれる精子提供者とは、一体どういう人物たちであったのか?そして、天才の遺伝子を受け継いだ子供たちのその後は?
大半が「その後」母子家庭となり、まだ見ぬ「父親」や腹違いの「兄弟」の発見を期待して、名乗り出てきた「バンク利用者」の母親たちの情報提供に基づき、 「理想の父親」探しを開始した著者が何とか見つけ出した男たちの実像は・・・
「精子は根源的な感情や直感的な行動に関わっており、高度な分析的思考力をつかさどる領域に集中的に関わるのは卵子である。」つまり「筋力は父親に似、知力は母親から受け継ぐ」ことのほうが多い。
というコンラート・ローレンツの「刷り込み理論」が、無駄なことをしてしまったという「後悔」ではなく、いくらかでも救われたという「安堵」につながる例が多かったというヒントを、 ここでは告げるのみとさせていただいて、続きはご自分で、ぜひともこの驚天動地のノンフィクションをお楽しみ下さい。
舞踊家のイサドラ・ダンカンはかって、ジョージ・バーナード・ショーに子供をつくりましょうと誘った。「考えても見てください!私の身体とあなたの頭脳が一緒になったら、どんなに素晴らしい子供であることか」 ショーの返事にいわく、「しかし、私の身体とあなたの頭脳が一緒になったらどうします?」
先頭へ
前ページに戻る