徒然読書日記200506
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2005/6/30
「金毘羅」 笙野頼子 集英社
一九五六年三月十六日深夜ひとりの赤ん坊が生まれてすぐ死にました。その死体に私は宿りました
「どうしてこんなに生きにくい世の中なのだろう?」という、幼少期からの世界との違和感を抱えながら生きてきた私は、47歳にして突然、悟る。な〜んだ、私は「金毘羅」だったのだ!
しかし、話はそれほど簡単には進まない。我が身の「居心地の悪かった半生」を「本当は金毘羅であった」という事実とつき合わせながら反省的に回顧して「ここちよい物語」に浸ろうとするたびに、 「ケーッ!」と嘲笑うかのように金毘羅に遮られ、話の腰を折られてしまうからだ。例えば、デビュー作から十数年続いた不遇時代を語るときも「文学の世界で語るべき事が何もないと言ってる人間は、新しく語るべき現実から目を背けているだけ」と言いたい放題なのである。
正直に言って「金毘羅」は神ではあるらしいが、それが何であるのかは、この本を読んでもよくわからない。しかし「私は金毘羅だ。なんか文句あるか!」ということなのである。
2005/6/30
「江戸の流刑」 小石房子 平凡社新書
「遠流」八丈島 主に思想犯 「中流」三宅島 主に破廉恥犯 「近流」大島 新島 主に軽犯罪者
と、江戸の流罪者が流される「伊豆七島」の場合、その罪状によって流される島が分けられていた。
西国の流罪者は、薩摩、五島、隠岐、天草へ流されたが、今年が隠岐なら来年は五島と、年毎に島順が決められていた。
これ以外に、佐渡があったが、ゴールドラッシュに沸く佐渡の流人は本土より暮しが裕福で、赦免されても住み着くものが多く、刑罰にならないということで、元禄十三年に廃止された。
等など、どのような罪で流されたのか?島での暮しは?仕置きや島抜けの実態は?といった、知っていても何の役にもたちそうにもない、魅力的な話題満載の本でした。
たとえば、地元の話題で言えば、関ヶ原の合戦の戦犯で八丈島送りとなった宇喜多秀家の一族を、加賀前田家が二百五十年の永きに渡って支え続け、それが浮田家や喜多家のルーツとなっている、なんて知らなかった。
2005/6/16
「半島を出よ」 村上龍 幻冬舎
北朝鮮のコマンド9人が開幕戦の福岡ドームを武力占拠し、2時間後、複葉輸送機で484人の特殊部隊が来襲、市中心部を制圧した。彼らは北朝鮮の「反乱軍」を名乗った。 さらなるテロの危険に日本政府は福岡を封鎖する。逮捕、拷問、粛清、白昼の銃撃戦、被占領者の苦悩と危険な恋。北朝鮮の後続部隊12万人が博多港に接近するなか、ある若者たちが決死の抵抗を開始した。
というのが「粗筋」であることは間違いない。しかし、精鋭コマンド9人の、それぞれの生い立ちや横顔が判らなければ、わずか9人で武力占拠という想定にリアリティを感じることはできないだろうし、 なぜ「反乱軍」を名乗ったのかという戦略の意味を理解していなければ、福岡ドームを人質に取るだけで、これほど短時間の間に市中心部の制圧に成功できたり、日本政府が福岡を封鎖する以外になす術を持たないことの意味も理解不能だろう。
つまりこの小説は、膨大な資料の分析と、作家の想像力とが結集して構築された、極めて精細な近未来のシミュレーションというべきものなのである。小さな出来事やエピソードまでもが計算し尽くされ、絶妙に配置されながら、 寸分の狂いもなく想定された「近未来の悪夢」に組み込まれていく。・・・そして「ある若者たち」の決死の抵抗が始まる。シミュレーションからの想定外の逸脱。 それは、「既存のシステム」からはみ出してしまった者たち(そのはみ出し方は尋常ではないが、最近発生している実際の事件を考えると、さほどでもないのが怖い)なればこそ可能な抵抗だったのだ。
2005/6/15
「感じない男」 森岡正博 ちくま新書
電車でミニスカの女性が座っていたとする。超ミニなので、どうしてもちらちらと彼女のふとももに目が行ってしまう。・・・ところが、電車が駅について彼女が立ち上がったときに分かったのだが、超ミニかと思われたのは、実はスカートではなくて、キュロットパンツなのであった。
「その時に味わう地獄に突き落とされたかのような幻滅」というのは、とてもよくわかる。わたしは「目にしているもの」に欲情していたのではなく、「見えない」ということに欲情していたのである。しかし
「学校」を愛するのだが、「学校」と性的に交わることはできないから、そのかわりに、「学校」の代理物としての制服少女と性的に交わろうとする。彼らにとって、制服少女を犯すことは、同時に、彼らの愛する「学校」に向かって射精することであり、制服少女を介して「学校」と性的に交わることなのである。
となると、ちょっと待ってと言いたくなる。確かに「セーラー服やブレザーの服飾に謎があるわけではない」のだろうけれど、私たち(といって悪ければ少なくとも私)は「制服」を介して立ち上がる可憐な「制服少女」のイメージに欲情することはあっても、彼女が通っている(本当は、通ってさえいない場合も多いだろう)「学校」がいかなるものであるかを気にすることはないし、 「婦人警官」の制服に催すところがあったからといって「国家警察」と性的に交わりたいわけではないと思うからだ。
2005/6/10
「靖国問題」 高橋哲哉 ちくま新書
「靖国」という
問題
。それが、どのような
問題
であるのかを、私たちは本当に知っているのだろうか。
という問いかけから始まるこの本は、「靖国」という問題を、「感情の問題」(追悼と顕彰のあいだ)「歴史認識の問題」(戦争責任論の向うへ)「宗教の問題」(神社非宗教の陥穽)「文化の問題」(死者と生者のポリティクス)等の様々な切り口で解きほぐし、正確な理解の下に、正しい判断を下すための好著であるとは思う。 確かに、「靖国問題」というのがどういう問題であるのかという点について、知らなかったことも多々あったし、様々な論点がすっきり整理されていく手際も見事なものである。
しかし、依然としてすっきりした気分を味わうことができないのは、私たち(といって悪ければ少なくとも私のような)下世話の人間にとっての「靖国問題」というのは、それが「何故」問題なのかがよくわからない、ということのほうにことの本質があるからだと思われる。
日本の首相が靖国を参拝することに、「何故」中国や韓国はあれほどまでに異議を唱えるのか?軋轢が生じることを充分に認識しながら、「何故」小泉首相は靖国参拝にこだわり続けるのか?本来の戦勝国、アメリカは「何故」靖国参拝を黙認しているのか? それぞれが、それぞれに、それなりの思惑を持って、こうした行動を取っているに違いないのだから、私にとっての「靖国問題」とはまさにそっちの方なのであり、この本を読んでもその回答は得られないのである。
2005/6/2
「14歳の子を持つ親たちへ」 内田樹 名越康文 新潮新書
読みどころ満載の対談集。まぁ、最強の聞き手、内田樹なので当然といえば、当然か。紹介したい部分を、全部引用すると本になってしまうので、最終章から一文のみ抜粋。
内側に母性があると思うのは間違いで、外から持ってきて演じるものなんですよ。「子どもをどうしても可愛いと感じられない」って言う女の人がいるけど、当たり前じゃないですか、・・・女の子をあまり好きじゃなくても「愛してるよ」って言いつづけると、向こうもその気になるし、こっちもその気になる。
フェミニズムは母性愛を「幻想だ」ってきびしく批判してきましたよね。・・・でも「フィクションだからダメ」じゃなくて「フィクションだからいい」って何で言わないんだろう?フィクションだから誰でもできる。内面にあるものだったら、ない人とある人の差ができるじゃないですか。
「子どもなんてわからなくて当り前」。覚悟と希望の親子論。もう私は手遅れなので、懺悔の思いも込めて、せめて息子と娘に読ませたい一冊でありました。、
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