徒然読書日記200502
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2005/2/28
「先生はえらい」 内田樹 ちくまプリマー新書
「仰げば尊しわが師の恩」が卒業式でうたわれる歌の、ベスト10にすら入っていない。という今日この頃。この本は、「先生は何たって先生なんだから、もっと尊敬しなければいけません。」という本ではありません。かといって、尊敬に足る「いい先生」が絶滅に瀕していることが日本の教育の荒廃につながっていることを嘆く本でもありません。
この本は「あなたが『えらい』と思った人、それがあなたの先生である」という定義から始まるわけですから、「先生はえらい」というのは、本が始まった瞬間に既決事項なんです。残るすべての頁は、「人間が誰かを『えらい』と思うのは、どういう場合か?」という「えらい」の現象学のために割かれることになります。
というわけで、「誰もが尊敬できる先生」など始めから存在しないこと(「尊敬できる先生」というのは「恋人」に似ている!)や、自動車学校の教官とF1レーサーの先生としての違い(先生は同じことを教えたのに、生徒は違うことを学んだ。)など、いつもながらの「わかりやすい例え」が、実にわかりにくい話をわかったような気にさせてくれます。 しかし、15歳を対象年齢に想定して創刊されたこの新書を侮ることは危険です。「学びの主体性」(生徒は自分が学ぶことのできること、学びたく願っていることしか学ぶことができない)や「ラカンの前未来形と他我」(未来への志向を含まない回想は存在しない)そして「沈黙交易」(完全な等価交換というのは、交換の無意味性、交換の拒絶を意味する)の話など 終盤に近づくにつれて佳境に入ってくると私たちは気付きます。これは壮大なコミュニケーション論の試みなのだということに。
コミュニケーションはつねに誤解の余地を確保するように構造化されている。・・・謎から学び取り出すことのできる知見は学ぶ人間の数だけ存在する
だから、「先生はえらい」のです。
2005/2/22
「人生と投資のパズル」 角田康夫 文春新書
「飛行機事故に遭う確率は非常に低いにもかかわらず、航空機傷害保険に入る人が多いのはなぜか」
「心理学を取り込んだ新しい視点から人間の経済行動を分析する」という「行動経済学」。何やら難しそうだがご心配は無用。アカデミックな第1章を乗り越えれば、後の議論の中心は冒頭のようなよくありがちな日常のシーン。 そこに用意された様々な質問に答え、愉快なパズルを楽しんでいるうちに、様々な投資やギャンブル、そして人生の極意までも会得してしまおうという欲張りな試みです。
例えば、100万円が当たる宝くじを持っていたとして、その当選確率が、@「0%から1%になる」A「40%から41%になる」B「99%から100%になる」という3つのオプションのそれぞれにいくらの値段を付けるかという問い。 期待値から言えば全て1万円であるから、期待効用逓減の法則(同じ1万円なら金持ちより貧乏人にとって価値がある)から、@ABの順に低くなりそうなものですが、Aが一番人気がないそうで、これを「確実性効果」と「非常に低い確率の過大評価」と言います。 今「なんだ、そのままじゃん。」と思いませんでした?私は思いました。でもこんな心理的な効果の、しかも実験結果を、ウェイト関数として概念的に視覚化し、確率に代わるものとして数量化してしまうというのが、心理学の能天気な凄さです。 で、冒頭の問いの答えも、実はこの「確実性効果」と「非常に低い確率の過大評価」なのだそうです。
2005/2/19
「住宅喪失」 島本慈子 ちくま新書
あえて簡単にいおう。98年当時の日本は「みんなが家を買うことで、国の景気をよくしましょう」という政策をとっていた。現在の日本は、雇用の流動化を進め、国民の間に貧富の差を拡大し、 「家を買える人にはどんどん買ってもらい、買えない人には“家賃を支払う存在”として経済に貢献してもらいましょう」という政策をとっている。
給与減額・リストラによる住宅ローン破綻。激増する非正規雇用者に対する融資選別による締め出し。住宅金融公庫融資の廃止。公営賃貸住宅の予算縮減と民間賃貸における入居者差別。 定期借家法や区分所有法にみる経済優先の姿勢。震災から十年。音を立てて崩れてしまったのは、苦労して手に入れたマイホームだけではなく、日本の住まいを取り巻くシステムでもあった。 「貧乏人は家を買うな」といわんばかりの「弱者切捨て」の論理が蔓延する中で、様々な場面で「住宅を買って不幸になった人々」が続出している。 「倒壊」「ルポ解雇」など、今最も熱く語れる気鋭のノンフィクションライターが、鋭く切り込む、必読のルポである。
2005/2/17
「シェークスピアは誰ですか?」 村上征勝 文春新書
「新約聖書」のパウロの書簡は本当にパウロが書いたのか?「源氏物語」の「宇治十帖」の作者は紫式部ではなかった?グリコ・森永事件の「かい人21面相」は二人いた?
例えばアルファベットで書かれた文献の場合,文章中の単語の長さの平均値(一つの単語が平均何文字か)を計算し,その著者の作品とわかっている別の文章と比較して、あきらかに異なっていれば、「その作者のものではないだろう」と推定する。 それは、これまで「作者Aの文章は力強いが、この文章にはそれが見られないのでAの著作ではない。」などと、きわめて主観的、抽象的に行われてきた書き手推定の議論を,その確からしさ(疑わしさ)を数値で表すことで可能にする、という意味で画期的なものである。 もちろん、この「計量文献学」が取り扱い、計量分析にかけようとしている数値データは、単語の長さ(これでは日本語が分析できない)にとどまらず、文の長さ,品詞や特定の言葉の出現率,語彙の豊富さ、さらに日本語では漢字の使用率など多彩であり,更に精度を上げようと試みられている。 いささか恣意的な部分も見られるが(差異の出たものだけ重視するとかね)なかなか興味深いテーマではある。というわけで「シェークスピアは誰だったのか?」興味のある方は、この本を読んでみてください。
2006/2/15
「経済物理学の発見」 高安秀樹 光文社新書
ガラスのコップが硬い床に落ちて粉々に割れたとします。大きな破片はほんの数個で、中くらいの破片はかなりの数、小さな破片は無数にあります。 目に見えないような小さな破片はさらに多く、これを顕微鏡で拡大すると、そこにまた同じような分布が観察されます。(余談ですが、このように無限に拡大しても同じように複雑な形に見える性質をフラクタルといい、自然界によく見られる性質です。) さて、ではこの破片1個あたりの大きさの平均値はというと、目に見えないくらいのほこりのような破片がほとんどなので、事実上ゼロということになってしまいます。 ところが、その標準偏差を計算すると、今度はごく少数の大きな破片の寄与が無視できず、理論上は無限大になってしまいます。このような分布を「ベキ分布」といいます。
で、この本の中で述べられている驚くべき発見の一つに、経済活動の結果としてのさまざまな量が「ベキ分布」に従っているというものがあります。なぜ驚くべきかというと(ベキ分布だから、という親父ギャグではありません)・・・
コップの破片の大きなものだけ寄せ集めれば、大体元の形がわかるということです。つまり、例えば「為替レートの変動」などでは、真ん中の95%を捨てて、上下5%の大きな変動のデータのみを用いた方が、大きな時間スケールでの為替変動の特性を捉えやすいということなのです。 95%といえば、従来の経済学が採用してきた正規分布では2σ(偏差値30〜70点のほうが判りやすいですか?)ということであり、これまで統計的有効性の物差しとしてきた「生データ」をゴミ箱に捨てろというに等しいものです。 まだまだ発展途上の「経済物理学」それだけに、今後の研究の成果が期待されます。
2005/2/11
「希望格差社会」 山田昌弘 筑摩書房
「勝ち組」と「負け組」の格差が、いやおうなく拡大するなかで、「努力は報われない」と感じた人々から「希望」が消滅していく。将来に希望がもてる人と、将来に絶望している人の分裂、これが「希望格差社会」である。
「現在と同じ程度の生活」を、将来にわたって維持できるか?という不安を感じる人が増えてきている。倒産・解雇・使い捨て労働者、パラサイトシングル・負け犬・離婚、オーバードクター・ダブルスクール・フリーター。 「職業」「家庭」「教育」どの側面から捉えてみても、私たちを取り巻く日本の社会の状況は、まったく先が読めないという「リスク」に満ち溢れており、 個人の通常の努力では乗り越え不可能な「質的格差」(与えられた立場の格差)の拡大は、二極化を進行させることにより、若者たちの「希望」を喪失させているのである。 人間はパンのみで生きるのではなく、希望でもって生きるのだ。「負け組」とは飢えに苦しむ人ではなく「生活に希望が持てなくなっている人」である。とすれば、今必要とされているのは、経済的セーフティネットだけではなく、心理的セーフティネットをこそ構築すべきなのだ。
2005/2/10
「ロング・グッドバイ」 矢作俊彦 角川書店
言わずと知れた、チャンドラーの「長いお別れ」をモチーフにした小説。ただし、こちらはwrongというのも、この本をご紹介する時のお決まりのパターンとなっている。 この本にはハードボイルド(というよりはミステリーか?)としてのちゃんとしたプロットが備わっており、それだけを楽しむことももちろん可能なのではあるが、それだけで終わってしまってはもったいないというのが矢作作品の特徴でもある。 つまり、題名でも明らかなように、随所に、矢作らしいセンスの良さで、様々なパロディがちりばめられているのである。そして、残念なことにセンスが良すぎて、読者が付いていけなくなってしまうような楽屋落ちが多々あるような気がする(私も付いていけない読者なので)というのも、いつものことである。 今回は2000年の横須賀を舞台としており、かろうじて命脈を保っている古きよき時代の遺物の痕跡から、「再開発」という名前の都市の破壊行為を逆照射するという作業が、哀愁と郷愁を込めて描かれていくのであるが、2000年という近い過去ですらもが、忘却のかなたに霞んでいこうとしていることに気づいて愕然とする。 2000年にパリーグからジャイアンツにやってきた、腹の出た外人選手?まさしく「そんな昔のことは覚えていない」のである。(答えはもちろんマルちゃんであるが・・・)
2005/2/8
「リコウの壁とバカの壁」 ローヤー木村 本の雑誌社
見上げるような壁の前に蹲り、小石を拾い上げては壁にぶつけながら、何やらブツブツ呟いている、いじけたような後姿の中年男。見てみぬ振りをして通り過ぎようとする私の耳に、偶然その呟きが囁きかける。「壁・の・バ・カ」。
というのが、空前のベストセラー「バカの壁」の続編、超話題作「壁のバカ」であるはずはないが、正直言って、この本はそんな類の「柳の下の泥鰌」本なのだろうと思っていた。 ところがどっこい、「『バカの壁』を読み解く虎の巻」と銘打った前半部分は、300万部を超える大ベストセラーとなりながら、誰も(少なくとも私は)その内容を理解できなかった(はずの)この本のその超難解さは、 実は著者自身の脳の構造に起因している(要は著者の側にバカの壁があるのだ)ということを、懇切丁寧に解きほぐして、噛んで含めて解き明かしてくれる、胸のすくような本だったのです。
話してもわからないという「バカの壁」を乗り越えようという無駄は辞めて、工夫の仕方によっては何とか乗り越えられる「リコウの壁」こそを乗り越える努力をしようという後半部分も含めて、なかなか侮れない名著であると思います。
2005/2/3
「粉飾国家」 金子勝 講談社現代新書
正しい情報が明確に開示されて、人々がその情報に基づいて方策を選択できる状態を保証していることを「フィードバックが利いている」という。一部の権力者が情報を独占して操作してゆくと、フィードバックが利かなくなり、制度は機能不全に陥ってしまう。 社会全体で多重なフィードバックの仕組みが壊れてしまった状態を「粉飾国家」と呼ぶことにする。「民営化」や規制緩和でさえ、粉飾国家の手法の一つにすぎない。日本は「粉飾国家」なのである。
というのが、著者の主張である。銀行の不良債権問題を見よ。相次ぐ企業の情報隠しを見よ。粉飾体質は官も民も変わらない。というわけだ。その典型的な「破綻」の例として、本書で取り上げられているのが「年金問題」。 政府自らの見通しの甘さから発生した膨大な「未積立金」(480兆円!)の責任問題の発覚を恐れ、次の世代に「つけを廻す」姑息な手法がますます問題を悪化させている。こんなことがいつまでも続けられるはずがないことは、誰の眼にも明らかなはずなのに。 にもかかわらず「山一證券」がつぶれてしまったように、「特別会計」や「特殊法人」など、嘘に嘘を重ねた巧妙な「粉飾」のメカニズムが構築されていくうちに、誰もが理解できなくなったシステムは、ずぶずぶと破綻していくのである。
2005/2/1
「謎解き伴大納言絵巻」 黒田日出男 小学館
この本は、第一に、「伴大納言絵巻」を支配してきたかに見える<謎の人物>論が、なぜ<謎>となったのかを明らかにする<謎解き>なのであり、「伴大納言絵巻」のアポリア(解消しがたい難問)の解決を目指すものである。 第二に、それと表裏の関係をなしているのだが、「伴大納言絵巻」の文法や構成を明らかにする試みである。
『伴大納言絵巻』には「謎の人物」が描かれていることで知られている。(のだそうだ。私はもちろん知らなかった。)清涼殿の庭に立つ後ろ姿の人物と清涼殿広廂に控える貴族。この2人は一体誰なのか? この謎に、これまで多くの研究者が挑み、さまざまな説を唱えてきた。本書では、そんな「伴大納言絵巻」の研究史がきわめて詳細にたどられ、謎の人物がそれぞれ誰に比定されてきたか、また、なぜこのように説がわかれるのかが明らかにされていく。 説話と史実を混同した解釈への批判。有職故実の研究成果の応用。不自然な継ぎ目の精密な観察による一紙脱落の発見。などなど、或いは精細に、時には奔放に、様々に展開されてきた研究の歩みを知ることができるのが第一部である。
第二部は著者による「謎解き」の始まり。絵画を史料として読み解くことを目指す著者は、まず絵を細かく見ることから始める。絵巻に描かれた人々の「表情」や「しぐさ」から、源信邸の場面が「悲嘆」ではなく「歓喜」であることを読み解く部分は秀逸である。 そしていよいよ、後ろ姿の「謎の人物」の場面。服装の模様や顔の表情、庭にもかかわらず靴を履いていないことなどから、人物を絞り込み、絵巻全体の構造の解析から「失われた一紙」の復元まで試みる。門外漢にもその醍醐味が味わえる稀有な快作である。
2005/2/1
「幸福論」 春日武彦 講談社現代新書
地球上のありとあらゆる飛行場へ飛行機をすし詰め状態でびっしりと並べたとしても、飛行場の面積の総和は世界中の飛行機を置くにはまるで足らない。 つまり、この世の中の飛行機の大部分は空中を飛行していなければならない。
これが「私に幸福を連想させる場面」の一つだと著者は言う。自分がベッドでぬくぬくしている間にも、びっくりするほど沢山の飛行機が、降りたくても降りられずに、空中を奔走している。そんな「凛々しい」飛行機に親近感が沸いてくるのだと。
幸福とは何か?得をしたり、願いが叶ったりといった、誰もが嬉しくなるような、わかりやすい「幸福」は、単に「幸運」な出来事というべきで、むしろ、毒にも薬にもならないような日常に象嵌されているひそやかな幸福にこそ価値がある、と著者は言う。 そうでなければ、生きていく甲斐なんてありはしないのだと。実際、冒頭のような「幸福の1ダース」として語られる著者自身の様々な体験談にしても、その後に語られる、多くは精神障害者や犯罪者のケースにしても(著者は精神科医なのである) 他人から見れば、それが「幸福」なのか、むしろ「不幸」と言うべきなのか、判断がつきかねるケースがほとんどなのである。「幸福」とはつまり人それぞれなのであり、事実は一つであったとしても、そこに「幸福の断片」を「見立て」ることによって 人は日常を生きていくのである。
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