徒然読書日記200501
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2005/1/24
「怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか」 黒川伊保子 新潮新書
「いほこ」は「人懐っこく、のほほんとしていて、乾いた感じ。」
「しほこ」は「切ない感じ。しっとりして、華奢。」
「みほこ」は「現実感が増して、女の王道を行くイメージ。」
「ちほこ」は「華があって、なおかつ、ちゃっかりした感じ。」
「りほこ」は「一気に知性派になって、先生と呼ばれる職業が似合う。」
「一字変更」のこのイメージの違い、何となく理解できるだろうか?これらはすべて、先頭母音「I」に「SH」「M」「CH」「R」という音のサブリミナル・インプレッションが加わった効果なのである。 「ことばの音には、意識と響きあう力がある。」ことばには意味があり、もちろんその意味を無視することはできないが、ことばが意味とは別にもつこの意識の質は、人の感性に直接働きかけてくる。
超特急「ひかり」を超える特急の名称は?トマトジュースはなぜカゴメなのか?サンリオはなぜ女の子御用達なのか?そして、「怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか」?
「ことばの音のサブリミナル・インプレッションと、そこから読み解くブランドマントラの世界」普通は「感性の問題」として語られるこの世界、それは特異な「母音語」をあやつることのできる日本「語」人の脳のみが、構造的に捉えることのできる世界だったのだ。
2005/1/23
「進化しすぎた脳」 池谷裕二 朝日出版社
つまり、覚えなければいけない情報を有用化して保存するために、脳は事象を一般化する「汎化」ということをしている。その汎化をするために、脳はゆっくりと、そしてあいまいに情報を蓄えていくということがわかった。それが、我々の記憶ってわけだ。
記憶が「あいまいだ」ということは、記憶が「減っていく」ということとイコールではない。むしろ、記憶が「あいまい」であるからこそ、正確無比のコンピューターには欠如している「ソウゾウ性」(想像或いは創造)が生まれてくる。 こうした汎化のために有効なプロセスが「抽象化」なのであり、そのためには「言葉」をあやつれることが重要なポイントとなる。つまり
人に心がある「理由」はきっと言葉があるからだけど、人に心がある「目的」は汎化するためなんだろうね。
では、その「脳のあいまいさ」は脳のどこから生まれてくるのか?新進気鋭の大脳生理学者が解き明かす「脳」の構造と仕組みとは・・・
「ニューヨークの高校生を相手に脳の講義をしてみてはどうですか」という打診を受けて、10日間に渡って行われた全4回の講義。それは「私自身が高校生の頃にこんな一連の講義を受けていたら、きっと人生が変わっていたのではないかと思うくらいの内容と密度だった」 と著者が自負するとおり、知的興奮と刺激にみちた、実にスリリングな内容であった。
2005/1/23
「ペンギンの憂鬱」 Aクルコフ 新潮クレストブックス
1990年、ソビエト連邦は崩壊し、マフィアが暗躍するウクライナの首都キエフ。「憂鬱症のペンギン」と一緒に暮らす、売れない小説家のヴィクトルは、まだ生きている人の「死亡記事」を書くという奇妙な仕事を請負うことになる。 そのうち、追悼記事を書いた「大物」たちが次々に謎の死を遂げ、抗争に巻き込まれて死んだと思われるギャングの娘ソーニャを預っていたヴィクトルは、不穏な情勢の中に巻き込まれていくことになる。
という、摩訶不思議なストーリーなのですが、「憂鬱症のペンギン」と一緒に暮らすという、とてもお洒落で一番不条理な設定が、かえって全体の運びを極めて日常的で自然なものに感じさせてくれます。 で、ソーニャとその子守役として雇ったニーナとの三人擬似家族にとって、なくてはならない存在となったこのペンギン、実は重い心臓病を患っていて、心臓移植を受けなければ余命幾許もない、あわれペンギンの運命やいかに・・・ね、読んでみたくなったでしょ?
2005/1/23
「キッパリ!」 上大岡トメ 幻冬舎
「たった5分間で自分を変える方法」というこの本。帯に「だまされたと思って、やってみてください、このポーズ!!」とある「テンコブポーズ」。 大ブレークした本なので「だまされたと思ってやってみた」人が、全国で数十万人いることになるわけですが(ちなみに私はやってみました。)「その時、歴史が動いた」ような話は聞かないので、まぁ気分的なものなのだろうと思います。
2005/1/15
「チェチェンやめられない戦争」 Aポリトコフスカヤ NHK出版
1991年の「革命」により独立を勝ち取っていたかに見えたチェチェンに対し、1999年プーチン大統領の誕生と同時に第二次チェチェン戦争は勃発した。「対テロ作戦」という大義を掲げたロシア軍による「掃討作戦」という名の略奪、誘拐、強姦、拷問そして虐殺。 遺体の引き取りにまで身代金を要求する連邦政府軍。賄賂と戦時予算個人着服の横行による俄成金や新興財閥までが誕生していた。一方の武装勢力の側でも、無政府状態を悪用した石油の盗掘や武器の密輸という利権の濫用は日常茶飯事であり、 それぞれが「戦時状態」という危険なバランスを保ちながら、むしろ保つことで、それぞれに「我が世の春」を満喫していたのである。
このような腐敗した現状のしわ寄せは、すべて一般市民に押し寄せる。そして、モスクワの良心的な新聞「ノーヴァヤ・ガゼータ」の特派員として、編集長から「一般市民」の眼で取材することを命ぜられた著者の、これは衝撃の「現場報告」なのである。 その凄まじいまでの惨状の一部始終は、この渾身のルポルタージュを是非お読みいただく以外にない。なぜ、そこまで追い込まれながら、人は生きる力を失わずにいられるのだろうか?と心揺すぶられるような、想像を絶する現状なのである。
いまチェチェンでは、身内を失った者たちが復讐のために作った「第三勢力」が台頭してきているという。皮肉なことに、プーチンは「テロ」の芽を断ったのではなく、植えつけてしまったのだ。 仕掛けた側にも、受けて立った側にも「やめられない」理由があったこの戦争は、いまや翻弄された側にも「やめられない」理由を与えてしまったことになる。
チェチェン武装勢力と一般市民を選別すると称する選別収容所で市民が受けた虐待は最近世界を驚かせた米軍によるイラク人虐待と酷似している。 たまっている個人的な欲求不満をぶちまける対象として、ロシアの契約志願兵にとってはチェチェン人が、米兵にとってはイスラム教徒が与えられたのだ。 人間の残忍さの発揮を許す仕組みは同じだ。海外の眼を巧みに排除した中でこれらのことは起きた。(訳者あとがきより)
2005/1/12
「反戦略的ビジネスのすすめ」 平川克美 洋泉社
なぜ、人は自らが発明したビジネスという魅力的で豊穣なコミュニケーションを戦争というつまらないアナロジーで語りたがるのでしょうか。・・・ ビジネスを『お金』であれ、『達成感』であれ、あるいは経営者の自己実現であれ、明確な目的が事前にあるものだとする考え方そのものが、ビジネスをつまらなくさせている原因のひとつであるということなのです。
昨日とは少しだけ異なる今日があり、昨日より少しだけ進歩した自分を実感できるということ。自らの「想い」と、いまここにある結果としての「会社の姿」の間の「ズレ」についての「物語」をつづること。 つまりは、そうした「プロセス」の中にこそ「ビジネス」というものの本質があり、本来の「ビジネスの風景」が垣間見えてくるものなのではないか?
日本の経営者にとって、喫緊の課題は方向を転換することではなく、これまで築いてきた無形資産のうえにオリジナルな経営システムを開発することであって、勝者の鋳型に自己の経営を当てはめることではないのです。
「顧客」はあなたの会社から「何」を買うのか?その取引はただ単に「モノ」と「カネ」の交換ではありえない。提供される商品やサービスの差別化がその「質」に基礎付けられ、競争の優位性が「顧客満足」によって測られるとするならば、そこでは
金品の交換と同時に「見えない資産」というべきものの交換が行なわれていることが見えてくるだろうということ。・・・戦略的な成功は「見えない資産」の減少と引き換えに得られた成功である可能性が強いということ。 「見えない資産」の蓄積は反戦略的な意思の持続によって誰にでも確実に達成できること。それは、具体的には企業を時間はかかっても着実な成長軌道に乗せる唯一の方法であること。
というのが、「反戦略的」という本書の骨子であるように思う。(なぜか「エクセレント・カンパニー」と結論だけは似ている。) しかし、この「インビジブル・アセット」以外にも「オーバーアチーブ」や「一回半ひねりのコミュニケーション」「攻略しないという方法」などなど、新鮮で刺激的な「概念」が次から次に飛び出してきて、厳しい経済情勢の中で打ちひしがれている 「へたれ経営者」の「ビジネス脳」を賦活させてくれる。「すべての現場で逡巡する人たちへ」という帯の文句も泣かせてくれる、負け組必読の「応援歌」である。
2005/1/8
「極短小説」 Sモス編 新潮文庫
「単語55語以内で小説を書く」というコンテスト。なぜ55語かといえば“Fifty Five Fiction”という語呂合わせにすぎないが、そんな制約がかえって「駄作」を「名作」に生まれ変わらせてくれることもある。 本文より長い題名の作品が送られてきたり、物語ではなく詩であったりと、その都度「制約」は整備されて、現在のコンテストに至った、これはその入選作品の集大成。 原文は英語の翻訳ゆえに「言葉遊び」や「パロディ」の部分が死んでしまったり、肝心の「語数制限」の意味が薄れてしまったりの興醒めは、原本にはない和田誠の挿絵(全編に1枚ずつ付いている)が十二分にカバーしてくれている。 というわけで、私が選んだナンバーワンはこれ。
「遺言」 ロブ・オースティン
自殺者の遺書は簡潔だった。
わたしの友、わたしの恋人、わたしの妻へ。
どうか自分を責めないでくれ。
だれも自分を責めなかった。
2005/1/5
「処刑電流」 Rモラン みすず書房
被害者の家族に公開で「死刑」が実施される。実は加害者は無実の罪で、同情的な看守たちはそれを知っていて執行に臨むのであるが、悪意を持つ執行人の仕掛けにより、死刑は悲惨な結末を迎える。 通電しても即死できなかったため、電極がセットされた頭が焦げだし、おぞましい光景と異臭に耐えかねた「観客」達は、嘔吐しながら逃げ出してしまう。電気椅子による死刑執行であった。
という場面が、Sキング原作、Tハンクス主演の映画「グリーンマイル」にありましたが、これはまさにその実話本。電気椅子で処刑される最初の人間となったウィリアム・ケムラーの人生の足跡を辿り、 犯罪を犯すに至った経緯を探り、死刑判決を巡って戦わされた裁判の記録を仔細に描きながら、ケムラーに課せられた「処刑電流」の残酷さを執拗に追いかけることで、始めに「死刑ありき」の人体実験に他ならなかったことを暴き出す。
実は、絞首刑が主流であったアメリカはニューヨーク州で、「人道的」観点から導入されることとなった「電気椅子」を強力に後押ししていたのは、あの「発明王」Tエジソンであった。 電気椅子に「交流」電流を用いれば、何の苦痛もなく「即死」に至らしめることが可能であると、保証したのである。自ら開発した白熱電灯により「電力事業」に打って出たエジソンは「直流」を採用していたが、 後発のウェスティングハウスは「交流」を採用し、その優越性から、エジソンの顧客を奪い取りつつあった。そこで「交流」に「殺人電流」の汚名を着せ、自らの名声を守る必要があった。 エジソンが電気椅子を推奨したのは、けっして「人道的」な配慮などではなかったのだ。
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