徒然読書日記200411
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2004/11/29
「大江戸の正体」 鈴木理生 三省堂
「鎖国」とは外国との交流を閉ざすためのものではなく、絹製品を独占的に輸入するための徳川幕府の策略だった。上流の正装は絹と定めるなど、絹中心で「世の中」を廻し、儲かる仕組みを生み出したのである。 しかしその決済は、当時「湧くが如く」に産出されていた金銀銅に頼っていたため、大量に海外へ流出。やがて貿易決済もできなくなり、外国からの武力による開国要求につながることになる。 領内で養蚕を奨励し自力を蓄えた各地の大名家に対し、「楽して儲かる」海外取引を独占し続けることにこだわるあまり、国産絹織物の生産体制を構築しようとしなかった江戸幕府は、自ら墓穴を掘ることになった。
というような感じで、「藩」という言葉は明治の「廃藩置県」まで使われなかった。(公文書では「諸家」と表現されていた。)だの、 「与力」「同心」は武士ではなかった。(ノンキャリアの地元採用公務員のようなものだった。) 男性専用の「髪結床」は町内の人別と人数の確認役だった。(身分制度が確立していた江戸では、髪型を見れば身分がわかった。髪結は町内の成人男性全員の月代を剃ることで、不審者の人別をしていた。) という具合に、知っているようで知らない、というよりは誤解に満ち溢れた「大江戸の正体」を、神秘のベールを剥ぐように、懇切丁寧に解き明かしてくれている。
2004/11/25
「野ブタ。をプロデュース」 白岩玄 文藝
2004/11/22
「人のセックスを笑うな」 山崎ナオコーラ 文藝
共に本年度の「文藝賞」受賞作。この賞、あまり注目したことがなかったが、過去の受賞者を見ると、高橋和巳「悲の器」に始まって、外岡秀俊「北帰行」田中康夫「なんとなく、クリスタル」 山田詠美「ベッドタイムアイズ」飯嶋和一、芦原すなお、鈴木清剛、綿矢りさ、中村航、羽田圭介等々と、錚々たる顔ぶれというか、何となく賞の性格を窺がわせる鮮烈な顔ぶれである。 だいいち選考委員が、角田光代、斎藤美奈子、高橋源一郎、田中康夫だもの、芥川賞より凄そうではないか。
で、この二作品。題名と作者名の珍奇さから「文藝賞」の注目度を大幅アップしたという功績大であるが(何たって、モーニング娘。の。ですよ。笑うなナオコーラですからね。) 両作品とも、それだけで済ましてしまっては申し訳ない読み応えである。
「わたしは読んでいて、ひたすら楽しかった。」高橋源一郎
先生(文芸評論界屈指の目利き)もお奨めなら、もう間違いはない。 「文藝 冬号」2作品に選考委員の講評まで入って1000円は「超」お買い得。わたしはこれで充分だったのだが、特集が「俵万智」(柳美里とのツーショット付き)なので、ファンの方は書店へ走れ!残部僅少だよ〜。
2004/11/22
「テレビの嘘を見破る」 今野勉 新潮新書
水を飲もうとしていたら、突然足元の土が崩れ、水の中に落っこちてしまった子象を、母象が鼻で引っ張りあげてやる。という、感動的なCM。目にしたことはあると思うが・・・
実は、水に落ちたシーンは偶然撮影されたものなのだが、引っ張り上げるシーンの方は、調教された別の象に演技させたもの。ちなみに、この2頭は親子ではない。というのはご存知か? (私はもちろん全然気づかなかった。というよりも、水に落ちたシーンの方も「やらせ」だと思っていたのだ。)
テレビのインタビュー。二人が座っているところを正面から写した後、取材に答えるゲストの顔がアップになる。時折うなずいているアナウンサーの顔が挿入される・・・
このアナウンサーの頷きが、実際は後から撮影されたもの、というのは如何ですか?ではなぜそんなことをするのか?製作コストの関係で、カメラは一台しか使えないからである。 (素人ビデオのようにカメラ一台で、二人がカメラ目線で対談していたら不気味だものね。たまに、アナウンサーが日本語で質問して、ゲストが即座にスワヒリ語で答えるなんてのもあるしね。)
という具合に、再現、誇張、歪曲、虚偽、捏造という手法に分けて、様々なテレビ的「事実」が提示され、あなたはどこまで認めるかと答えを迫る。 「あるがままの事実」をそのまま提示することが、それほどに理想的なことなのか?「事実」という「虚構」の意味を深く再考させてくれる本である。
ちなみに、上記の文章の・・・を「って言うじゃぁなぁい?」、()の前に「残念!」最後に「斬っ!」と入れて読むと、二度楽しめる。なんてことはありません。
2004/11/21
「狂気」 ハ・ジン 早川書房
謹厳実直で尊敬を集めていた山寧大学の文学部教授が突然脳卒中で倒れた。後継者と目される愛弟子であり、教授の一人娘の婚約者でもある「ぼく」は、友人と二人、交代で看病をすることになる。 朦朧とする意識の中で、なかば狂ったような教授の口から発せられるのは、妻への嫉妬にみちた讒言、若い愛人との卑猥な妄想、自らの人生を否定するような学問への呪詛の言葉だった。 そんな妄言にいちいち心を揺すぶられることで、将来を約束されていたはずの「ぼく」の人生は、少しずつレールから外れだしていく。
文化大革命が中国のインテリに残した傷跡の記憶を抉り出すかのように見せながら、この小説が描き出そうとしているのは、現在の中国の若者が置かれている出口の見えない袋小路のように思われる。 なにしろ作者が設定した小説のクライマックスの舞台は、民主化運動に揺れる天安門広場なのである。
2004/11/21
「阿房列車」 内田百閨@ちくま文庫
何にも用事がない大阪へ、列車で出かけることにする。何にも用事がないから一等車に乗る。何にも用事がないから、大阪に着いたらすぐとんぼ返りをする。 帰りは三等車に乗る。今度は「東京へ帰る」という立派な用事があるのだから、一等ではもったいない。なにしろお金がないのである。というわけで、そうと決めたらまずは「金策」である。
出だしの部分のほんのさわりをご紹介するだけで、これほど「わくわく」させてくれる紀行文はめったにないでしょう?旅とは目的地にたどり着くことではなく、たどり着くまでの過程を楽しむことなのだということが身に沁みる。 しかも、交わされる会話はウィットに富み、巡らされる一人思案はエスプリに満ち溢れている。さすが稀代の名文家「百鬼園」先生ここにありというわけで、旅のお供にお奨めの一冊です。 もちろん、目的地についてからの暇つぶしにお読み下さい。
2004/11/18
「教養主義の没落」 竹内洋 中公新書
昭和10年の慶大生の愛読雑誌 1位「改造」2位「中央公論」3位「文藝春秋」
昭和45年の東大生の定期購読雑誌 1位「朝日ジャーナル」2位「少年マガジン」3位「世界」
平成8年の京大生の愛読雑誌(立読みが主流) 1位「少年ジャンプ」2位「ビッグコミックスピリッツ」3位「少年マガジン」
昔のエリート学生はなぜあんなに難しい本ばかりを、争うように読んでいたのか。昔はそんな本しかなかったから?いえ、いえ。一般の庶民(とはいえ、無学歴層よりは上層)は「キング」「講談倶楽部」「日の出」などの娯楽雑誌を読んでいたのである。 昔の豊かな読書をささえてきたのは、本を読めば「立派な人」になれるという「教養主義」であると著者は主張する。「中央公論」や「改造」を読まないと「時代に後れると思われていた」というのである。 しかしそんな「教養主義」も一皮剥くと、「教養の牙城」ともいうべき文学部が、「実学の巣窟」たる法学部や工学部より、経済的にも出身階層でも下に位置づけられ、所詮2流という劣等感を背負わざるを得なかったということ。 そして、むしろそういう「被害者意識」をバネにして、就職率37%という「やせがまん」を耐え忍ぶ、屈折した「主義」を成立させていたことを、鮮やかに描き出している。 教養主義の破壊者ともいうべき石原慎太郎の「カッコよさ」は、教養主義の「貧乏臭さ」への自己嫌悪であり、つまりは教養主義の裏返しだったという示唆もあり、とても刺激的な好著だった。
2004/11/16
「梟首の島」 坂東真砂子 北国新聞
取り立てて書くほどのことはないのですが、初めて「坂東真砂子」を読んだということと、初めて「北国新聞」の連載小説を読んだということが、 二つ重なって、とてもおめでたい?ような気がして、ここに記念の足跡を記しておく事にしました。 (これって部数の関係もあるから、どこかの新聞と共戴してるんでしょうね?)
2004/11/7
「いま私たちが考えるべきこと」 橋本治 新潮社
「東京大学物語」(江川達也)という漫画があって、毎回、相手の何気ない「質問」に対して、数万手の変化を瞬時に読む囲碁ソフトのように、頭の中を「論理」が駆け巡り (漫画では数ページに渡って、文字だらけの吹き出しと、微妙或いは過激な顔相の変化でそれを表現していたが)コンマ数秒で、最適の「返答」を返す、という名場面があった。
橋本治の論述は極め付きの「悪文」である。文意は極めて明快である。AならばB、という論理も筋が通っている。しかし、長文を通しで読むと、何がなにやら訳がわからなくなってしまう。
「自分のことを考えろ」ということになって、「まず自分のことを考える人」と、「まず他人のことを考える人」と、人にはこの二種類があると思う。
ところから始まって
いま私たちの考えるべきことは、「必要に応じて“私たち”を成り立たせられるだけの思考力と、思考の柔軟性をつけること」ーこのことに尽きるだろうと、私は思う。
という結論を得るまでの、二百数ページに及ぶ「行きつ戻りつ」は、恐らく橋本の中では、コンマ数秒の変化を読む技のようなもので、その一つ一つは論理的には正しいが、 最善手ではないという打ち捨てられた「悪手」なのだろう。ではなぜそんなものまで披露するのか?つまりこの本は「思考のレッスン」として提示されているのである。
2004/11/6
「はじめての精神科」 春日武彦 医学書院
「こんな本、誰が読むんだろう?」と言いつつ、自分が読んでいるのだから世話はないが・・・これは、私が勝手に誤解したような、これから初めて精神科の診察を受けようとしている人が読む本ではなくて、 精神を患らっておられる方の周囲で、日々苦労されている方々を読者に想定して、実践的な対応の指針となるヒントを授けてくれる本なのである。(そんなことは、援助者必携と副題にあるからわかりそうなものなのだ。) しかし、治療の現場でのケーススタディともいうべき、豊富な実例を読むにつけても、「患者」よりはむしろその「家族」の方が重篤な問題を抱えている場合があるだの、 「患者」と「医者」との間に繰り広げられる「騙しあい」ともいうべき「駆け引き」だの、いったい癒されるべきは誰なのかという、状況が垣間見えるのである。
で、この本かなりのベストセラーのようなのだけれど、「精神科」の関係者の方々が読んでいらっしゃるのだろうか?だとしたら、「はじめての外科−正しいメスの握り方」なんて本を読んでいるお医者さんの手術を受ける気はしないだろうことを考えると、 「精神科医」というのは、おそらく「医者」ではないと確信した次第である。
2004/11/5
「不可触民と現代インド」 山際素男 光文社新書
マハトラ・ガンジー。イギリスの原住民差別的な統治に反旗を翻し、国産の綿を紡ぎ、塩田で塩を生産しようと呼びかけたインド無抵抗独立運動の「聖者」。独立を果たした後のインドで、国内の宗教的分裂闘争に抗議して、断食を決行した・・・?ように理解していたのだけれど。 あの断食が、カースト制の堅守を主張するガンジー(もちろんカーストはバラモン)の「最後の手段」であり、分離独立選挙権を取得しようとする不可触民階層を「それなら、私は死んでしまうぞ」と追い詰めるためのものだった。不可触民階層はガンジーの脅迫に屈し、分離選挙をあきらめた。なんて、知っていましたか?
わずか15パーセントの上位三カースト(バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ)が、行政から教育、メディアまでを独占しているインドにおいて、ほとんど知られることのない不可触民の境遇を、様々な運動の先頭に立って活躍する、不可触民指導者へのインタビューによって活写した快著。 全人口の二十五パーセントを不可触民が占めること。カースト制と深く結びついたヒンドゥー教を捨て、平等を説く仏教へと改宗する者が後を絶たないこと。等々、現代インドの実像を知りたい方は必読です。
2004/11/1
「言論統制」 佐藤卓己 中公新書
第2次大戦開戦前後、陸軍省情報局の情報官として、マスコミの言論弾圧に辣腕をふるった鈴木庫三少佐は、「日本思想界の独裁者」「小ヒムラー」として悪名高かった。(もちろん、私はこの本で初めて知ったのだが) しかし、新たに発掘された日記と手帳(というより、誰も真剣に調査しようとしてこなかったらしいのだが)をもとに、今回浮かび上がってきた鈴木の人生は、極貧の生活から艱難辛苦を乗り越え、砲兵上がりで将校となり、陸軍から選抜派遣されて東京帝大で教育学を学ぶという「立志伝」。 「悪名」の由来ともなった「中央公論社はぶっつぶす!」事件にしても、例えば石川達三が、戦後になってから「風にそよぐ葦」という新聞連載小説で描写した姿が、まるで真実であるかのように流布しているばかりで、 丹念に当時の資料を掘り起こしていく著者の手にかかると、「弾圧者」と呼ぶにはいささか心もとない姿があぶりだされてくるのだ。 戦時体制下で、互いに牽制しながらも、基本的には戦争に協力してきた、当時のマスコミが、戦後になって立場を豹変する、その人身御供として「クラゴン」はうってつけの存在となったのである。
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