徒然読書日記200410
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2004/10/30
「ブラフマンの埋葬」 小川洋子 講談社
ここでもご紹介し、激賞させていただいた「博士の愛した数式」(その後、読売文学賞・本屋大賞をW受賞しましたね)の著者による佳作。
どこにでもありそうで、どこにもない場所にある「創作者の家」という施設。あらゆる種類の創作活動に励む芸術家たちに、無償で仕事場を提供する家、 しかも、ある出版社の社長が死後、遺言で別荘を提供という「そんなことがあったらいいに違いないが、けっしてありそうもない」という施設である。 そこで住み込みの管理人をしているという、これまた存在感の薄い設定の僕のもとに、ある日「ブラフマン」がやってきた。 そう、どこにでもいそうで、どこにもいない、これはそんな「ブラフマン」に捧げられた、小川洋子お得意の、ちょっぴりせつなくて、いとおしい、ひと夏のメモリアルなのである。
ちなみに本作品は、我がふるさと金沢の「泉鏡花賞」を受賞しました。
2004/10/28
「ブーンドックス」 Aマッグルーダー 幻冬舎
「ずっと引っかかってることがあるんだ。バカげた疑問だけど、ただ気になって・・・」「言ってみな」
「うん、ただ・・・その・・・ちょっと思ったんだけど・・・面倒起こしたいわけじゃないよ、でも・・・」「いいから、思い切っていっちまいな。」
「だから、去年の大統領選挙では本当はどっちが勝ったんだ?」「シッ!もう、その質問すると逮捕されるぞ」
シカゴの黒人ゲットーから、白人ばかりの郊外住宅地に越してきた、今どき珍しいアフロヘアの小学生、ヒューイ・フリーマン。その過激な批判精神は、発禁・抗議・脅迫さえも笑いのネタに変えて 毎日2000万人の全米読者に愛読されている。「華氏911」のマイケル・ムーア氏もご推薦の新聞4コマ漫画である。
2004/10/25
「アフターダーク」 村上春樹 講談社
「私たち」という一人称複数で、淡々と語り続けられる一晩の物語。場面から場面への切り替えのたびごとに、執拗に「私たち」の視点での情景描写が試みられる。 それが「眠り続ける姉」と「眠りを拒絶する妹」のまったく別々の物語を、不連続に連続させていく。間に挟みこまれるいくつかのエピソード。
申し訳ない。これって「映画的手法」でしょと単純に言い切ってしまったら、ひょっとしたら、村上春樹に負けたことになるのかもしれないという妙な圧迫感から、最後まで楽しむことができずに読み終えてしまいました。 でも、これって一体なんだったんでしょうか?
2004/10/24
「猫のつもりが虎」 丸谷才一 マガジンハウス
料理屋に対する提案三つ。
「掘炬燵ふうにして欲しい。」胡坐では辛いし、椅子では和室の様式が狂ってしまう。
「酒はせめて甘辛の二種類は置いて欲しい。」どうでもいいようなビールの銘柄は、何が言いかとうるさく聞くのに。
「御飯は最初から出して欲しい。」四きれの刺身のうち、二きれは酒の肴。残る二きれは白い御飯で、なんて人もいる。
いつもながらの知的好奇心をくすぐる「ちょっといい話」のオンパレード。
でもちょっと待って。最近は「掘炬燵風」にしても「お酒の銘柄」にしてもそんな店いくらもあるのになぁ。と思ったら、なんと10年以上前に雑誌に連載されたものでした。 そういえば、建築評論家の不在が都市の風景の貧しさにつながっているという指摘にしても、最近は「建築評論家」なんて犬に喰わせるほどいるもんなぁ。 もっとも、都市の風景の貧しさは相変わらず、というのがいささか情けないですが。
2004/10/21
「漢文力」 加藤徹 中央公論新社
かつての日本語には叙情的な「和文脈」と論弁的な「漢文脈」という二つのチャンネルがあった。取り上げる問題の性質に合せて、叙述の文体を変えることにより対応することができたのである。 むしろ、叙述のスタイルによって、思想が形成されていたと言ったほうが正確であろう。そういった意味で、現在の日本人の論述力の劇的な衰退は「漢文力」の低下に起因するところが大きいように思われる。 意味は後からついてくるという点では同じであるとはいえ、幼い頃から「論語」を素読させられたかつての日本人に比べれば、0歳児から英語を学んで、現地人並みの発音で、マクドナルドでハンバーガーを注文できたところで、それが何だというのだろう。
というわけで、相当に期待して読んだわけだけれど、内容はあんまりぱっとしなかったような。方向性からすれば、あっさりと「声に出して読みたい漢文」のような構成のほうが面白かったのではないかと感じました。
2004/10/21
「死と身体」 内田樹 医学書院
レヴィナスの哲学と、武道と、フロイトの精神分析にはずっと興味がありました。同じ内田という人間がひとつの身体を使って生きているのに、あれこれと違うものに興味がわくはずはない。 ですから、精神分析とレヴィナス哲学と武道の修業は、ぼくにとって「よりよく生きるための技法」として、ひとつのものとして受け止められているんじゃないかと思うんです。
座頭市が刀をチンとおさめて、まわりの奴らがダダダダッと倒れる時、座頭市は「速く」動いているのではなく「違う時間の流れ」に乗って先行して動いている。つまり「構造的に勝って」いる。
精神分析治療のクライマックスにおいて被分析者が分析医に対してエロティックな激しい固着を示す「転移」という現象は、トラウマを乗り越え、「止まった時計」を動かして、再び前に進ませるための、フロイトの分析治療の原理である。
という理説は同じ一つのことを言っているというわけである。あるいは「わたしがそれになりつつあるものを、すでになされたものと思いなせ」という武道の身体技法の要諦と 「まだ語り終えていない当の物語を、すでに語り終えた人が、回想する、という仕方で語る。」というラカンの「前未来形」の治療原理は同じだというのだ。
「誰もが感じていて、誰も言わなかったことを、誰にでも分かるように語る」著者の朝日カルチャーセンターの語り下ろし。付録の「わかりにくいまえがき」が秀逸なのもいつもどおりの逸品である。
2004/10/18
「かわうその祭り」 出久根達郎 朝日新聞
朝日新聞連載終了。話の筋自体は戦時中の幻の迷作映画を巡るものでシナリオ仕立ての部分がとても読みにくく閉口したのだが、 古本屋業界にまつわる「こんなものまで扱うのか?」(古い紙なら何でもとかね)というエピソードの面白さと、土橋とし子による挿画がグーでした。
2004/10/15
「オニババ化する女たち」 三砂ちづる 光文社新書
あれは、社会のなかで適切な役割を与えられない独身の更年期女性が、山に籠もるしかなくなり、オニババとなり、ときおり「エネルギー」の行き場を求めて、若い男を襲うしかない、という話だった。
これを読んでいる女性が何人いるかわかりませんが(ひょっとしたら一人もいない?)のっけから下品な質問で申し訳ありません。
「あなたは自分の排卵がわかりますか?」フリーセックスのポリネシアの女の子たちは「この人と結婚する」と決めたら、すぐに妊娠して子供ができた。排卵を知り、妊娠がコントロールできたわけです。
「あなたは月経をコントロールできますか?」昔の日本の女性(明治生まれぐらいまで)はトイレで出すことができたようです。生理用品もないしね。
「あなたは出産は痛くてつらいものだと思っていますか?」昔ながらの助産院における「自然なお産」により「絶対的な幸福感」を経験した女性は産んだすぐ後に「ああ、また産みたい」とさえ思うようです
こうした、本来自然に備わっていたはずの女性の身体能力、あるいは「からだの知恵」はどうして失われてしまったのか?月経を月に一度の「うっとうしいもの」と垂れ流す。 ただでさえ「産むこと、育てること」に何の希望も持てない世の中で、出産は「痛くてつらいもの」と聞けば「子どもを産むこと」に夢を持つことなどできない。 しかも「別にしたくなければ結婚しなくていいよ」「仕事があれば子どもがいなくていいよ」という「物分りのよすぎる親」の存在。このままでは、日本の女性は「総オニババ化」してしまうという目から鱗の警鐘にみちた快著です。
2004/10/13
「アベラシオン」 篠田真由美 講談社
名門アンジェローニ・デッラ・トーレ家の末裔にして新進気鋭の美術評論家アベーレ・セラフィーノ。イタリアはペルガモの丘に彼が所有する五角形の迷宮「パラッツオ・サンタンジェロ」に住むジェンティーレという異母兄弟は、 天使の名を持つ華麗な一族にあって、まさしく天使の容貌を具えた車椅子の少年だった。所蔵される未公開の美術品の数々。一族にまつわるなぞめいた伝説。忍び寄るナチスの影。目くるめくようなお膳立ての中で引き起こされる凄惨な連続殺人。 豪華絢爛にもかかわらず悪夢のような夢うつつの世界。それらのすべてが、最後の一瞬の光景の中に収斂されていくための仕掛けであった。
全体の雰囲気は前に紹介した「ダ・ヴィンチ・コード」と似ております。余談ですが、自分が「建築専門」ということももちろんありますが、その上、娘が「美学・芸術学」の方に進学し、学芸員の資格を取ると張り切っている時にたまたま読んでいたので、 そういった意味でもかなり身につまされて読んだ部分もありました。
2004/10/13
「高齢者虐待」 小林篤子 中公新書
高齢者虐待には大きく分けて「家庭での虐待」と「施設での虐待」の二種類がある。
「虐待をしたくて、している家族なんかいない。みんな、そういう気持ちを抱いてしまう自分がつらく、情けないと思っているんです。」
美談や奇麗事ではすまない在宅介護を、ぎりぎりのところで何とか続けているところに、献身的であったればこその「悲劇」は起こる。 親戚や近隣もそのことに薄々気づいていながら、ある種の「負い目」や「無理解」から、行くところまで行ってしまうのが「家庭での虐待」の実態なのである。
「世話になっているし、どのみちほかに行くところがない。我慢するしかないということは知っていたが、あそこは地獄だった。」
元職員からの内部告発により、続々と明らかになる施設介護の現場での「アンビリーバボー」な虐待の実態。 それは勇気を奮って改善を求めた良心的な職員が「元職員」とならざるを得ないという意味で二重に悲劇的である。 しかし、そんな「経済行為」を可能にしているのは「沈黙する家族」の存在であることを忘れてはならない。
「私はこんな国で老後を迎えようとしている。」という暗澹たる読後感。 しかし今、「まずはオムツをはずそう」という地道な取り組みから始まる「寝たきりゼロ作戦」などの動きも定着しつつあることに、心からの声援を送りたい。
2004/10/2
「下山事件」 森達也 新潮社
昭和24年7月6日、国鉄の初代総裁下山定則が常磐線の線路上で轢死体で発見された。世に言う「下山事件」である。このあと立て続けに起こる、三鷹事件と松川事件。 真犯人はおろか、事件の狙いすらもいまだ明らかにされていない三つの大惨事。これは、オウムの素顔を描いた自主制作ドキュメンタリー映画「A」を世に問うた著者が、 次に選んだテーマの報告書である。「シモヤマ・ケース」そのものについては、戦後の民主化政策から、一転日本の赤化を恐れたGHQの一大方向転換の意を汲んだ(この頃から既に、日本の中枢は米国の意を汲んだのだ)ある勢力の 共産党つぶしの秘策の犠牲(いけにえ)となったらしき、結論めいたものをほのめかしているのだが・・・
もう一つの読み方として、取材を継続するための手段として、当初はTBSのTV報道特集から、週刊朝日の連載、自主制作映画と、ことごとく挫折を重ね、 先に朝日新聞社で出版されてしまった(「葬られた夏」諸永裕司 未読)ものとほぼ同じ内容のものを、新潮社から出版せねばならないという「悪戦苦闘」の取材記録として、皮肉な読み応えがあった。
2004/10/2
「枕草子REMIX」 酒井順子 新潮社
枕草子現代語訳といえば、橋本治の「桃尻語訳」ということになるが、この本は単なる現代語訳でなく<その状況を現代に置き換えてみるならばこんな感じ?>というところが「いと、おかし。」
例えば、第九十一段「かたはらいたきもの」(いたたまれないもの)、原文の直訳は「本人が聞いているのを知らないで、その人の噂話をするの。」というものですが、<今だったらこんな感じ?>バージョンでは
ある人の悪口を、特定の仲間だけにメイルした一瞬後にふと嫌な予感がして確かめたら、宛先の中に悪口のネタになった人のアドレスが入っていた。
となるわけです。ご存知「負け犬の遠吠え」は3ページ読んでパスしましたが、こちらはしっかり読破いたしました。
2004/10/1
「同和利権の真相 1,2」 グループK21 宝島社
同和対策事業特別法の本来の目的は、部落の住環境を改善しなくてはいけないけれども、改善された部落をつくってはならないというものです。 一般地区と同和地区との交流を円滑にし、一定の年月のうちに自然に交流を深めて部落を発展的に解消していくために、環境改善が必要とされてきたわけです。 (東大阪市における同和事業の終結に向けての意見書より)
この問題について、何か偉そうにモノ申せるだけの体験も知識もなく、そのような立場にあるわけでもないことは承知の上で、あえて発言させてもらうとすれば、 この意見書は、まことに正論であり、であるとするならば、部落解放運動という運動は、最終的には自らの運動の終焉をもって、その目的を達する運動であると言わねばならない。 しかし、組織や運動は、必然的に自己保存や拡大を目指すものであり、その過程で権利(ここでいう利権)が発生してくれば、そこから腐敗が始まることになる。 これはなにも、ここだけに限った話ではなく、官公庁や業界団体などでも(さらにいえば民間会社でも)同様なことなのである。
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