- 2003/12/29 「明治・大正を食べ歩く」 森まゆみ PHP新書
- 12月に上京した際、少し時間があったので、品川駅の東口を見学して愕然とした。これではまるで「露天掘りの炭坑だ。(見たこと無いけど)」
「六本木」や「汐留」を見た時も感じないではなかったが、品川は最悪だった。東京はますます「まともな人間」の生息できる地ではなくなっているように感じる。
これなら、まだ金沢駅の東口ドーム(これもひどい代物)の方が許せるような気がしてくるほどだ。一体全体、こんなもの誰の許可を得て作っているのだろうか?
建設業を営んでいて言うのもなんだけれど、「建築する」ということは「町を壊す」ことだという罪悪感ぐらいは持っていて欲しい。もっとも、確信を持って「壊して」いる人まで止めはしませんけど。
で、この本ですが、「谷・根・千」(谷中・根津・千駄木)で有名な著者の、東京老舗案内。「古い」ということがそれだけで「免罪符」になるとは言いませんが、
「ホッとする」という人間の感性も、まんざら馬鹿にできないと思います。第一、安くておいしそうというだけで、六本木ヒルズじゃまず無理だからね。
- 2003/12/23 「子どもは判ってくれない」 内田樹 洋泉社
- 「誰にも迷惑かけてないんだから、ほっといてくれよ」と言って、売春したり、ドラッグをやったり、コンビニの前の道路にへたりこんでいる若者たちがいる。
彼らは「人に迷惑をかけない」というのが「社会人としての最低のライン」であり、それだけクリアーすれば、それで文句はないだろうというロジックをよく使う。
なるほど、それもいいかもしれない。でも、自分自身に「社会人として最低のライン」しか要求しない人間は、当然だけれど、他人からも「社会人として最低の扱い」しか受けることができない。
そのことはわきまえていた方がいいと思う。
「自分に敬意を払う」ことのできる者のみが、他人からも敬意を受け取ることができる。間違えてはいけないが、自分に敬意を払うと言うことは・・・と続くのである。
これは「今時の若い者は・・・」とおじさんが説教をたれる本ではない。なぜなら、そのような本を読むのは「そうそう、俺もそう思っているんだよ。」と溜飲を下げるおじさんばかりであり、
肝心の説教されるべき若者は決して読まないことなど、したたかな著者にはお見通しだからである。で、この本は「大人というものは、こういうふうに考えるものだ。なぜなら・・・」ということを教えてくれる。
いや逆に「こういうふうに考える人のことを大人と呼ぶのだ。」と、いつまでたっても「大人」になりきれない「子どもたち」に、噛んで含めるように教えてくれる本なのである。
- 2003/12/21 「蟹の横歩き」 Gグラス 集英社
- 死者二千名の「タイタニック号の沈没」は美しい悲劇として映画にまでなった。九千名の死者を出したナチス・ドイツの豪華客船「グストロフ号の沈没」はタブーとなった。
著者が「ブリキの太鼓」で示されたあの過剰なまでの想像力を発揮する作家ギュンター・グラスとくれば、あの「映画」などはるかに凌駕した、このドラマチックな展開は当然フィクションと思ってしまうのだが、
主人公以外はほぼ史実という解説に驚かされる。激動する歴史の中で生々しすぎる体験を冷静に語ることのできない母親と、事件当日に、当の船上で誕生するという数奇な運命を与えられた語り手(当然事件を語ることはできない)
に代わって、事件を詳述する役目を担うのは、語り手の息子ではあるが、彼はネット上に姿を現すに過ぎない。そんな彼らの、事件との複雑な距離感を縫うように、作者の「蟹の横歩き」が綴られていく。
- 2003/12/13 「日本史快刀乱麻」 明石散人 新潮新書
- 鯖というのは鮮度の落ちるのが早い魚である。ろくな保存設備のなかった江戸時代、仲買人と魚屋の間には、腐ってしまう分を見込んで、予め注文より余計に納入する習慣があった。「サバを読んだ」のである。
だから広辞苑の「得をしようと数を誤魔化す」という解釈は間違いである。薀蓄を語るといっても、普通はここまでで、得意顔をして終わりであろう。(谷沢永一とかね)しかし博覧強記の稀代の薀蓄学者は、ここからが違う。
そこから「時そば」の落語の話へと移り、現代人の心の卑しさが、本来善意から出た「サバを読む」という言葉を「誤魔化す」の意味にし、「時そば」の悪意を罪のない笑いに変えてしまったと結論するのである。
あらゆる分野にわたり、縦横微塵に「常識」なるものを打ち破る、胸のすく一冊である。
- 2003/12/11 「少女監禁」 佐木隆三 青春出版社
- これは「新潟少女監禁事件」と、それと同時期に起きた「小倉少女監禁事件」(のちに一家七人連続殺人事件に発展)の二つの「少女監禁」事件を、主に公判の傍聴により追いかけた報告である。
いずれも、「逃げ出そうと思えばいつでも逃げ出せたのに、何故?」という疑問など、第三者の極めて無責任な論評に過ぎないことを思い知らせてくれる。当事者は絶望的なまでに追い込まれているのである。
ところで、「新潟」の方は「ああ、あの九年も部屋に閉じ込めておいて、親が気付かなかったっていう、あれね。」と思い出すのだが、「小倉」の方はどうもあまり鮮明な記憶がなく、なんとなく不思議な事件と思っているうちに、
巷の話題から消えていってしまったような印象がある。(これは私だけの印象なのだろうか?)
しかし、公判記録を読んでみると、「小倉」の凄まじさは圧倒的であり、これに比べれば「新潟」など犯罪に値しないと思えてしまうほどなのである。(このあたり極めて極端な言い方をしているので、不快に感じられたらゴメンナサイ。)
いずれにしても、事実は常にフィクションを超えているということを、改めて確信した次第である。
- 2003/12/7 「ららら科學の子」 矢作俊彦 文芸春秋
- 1968年、学園闘争の嵐の中で殺人未遂を犯し、中国へと脱出した男は、文化大革命の中国で辺境に追われ、無為の時を過ごし、2000年、日本へと逆密入国を果たした。
30年ぶりの東京で男が目にしたものは、かつて夢見た輝かしい未来都市のイメージとは、どこかちぐはぐな哀しい風景だった。
ずっとそこに居る者には、見えてこない「光景」というものがある。いつの間にか失ってしまっていたことに、気付かなかった「痛み」というものがある。
遠く離れていればこそ手に入れることのできる、そうした「光景」や「痛み」を、大切に慈しもうとする「切なく、美しい」感情は、「何を今更」という後ろめたさに支えられてあるものなのかもしれない。
- 2003/12/5 「巨人の肩に乗って」 Mブラッグ 翔泳社
- 「わたしが人より遠くを見てきたのは、巨人の肩に乗っていたからだ」アイザック・ニュートン
アルキメデス、ガリレオ、ニュートン、ダーウィン、フロイト、アインシュタインなど歴史に残る十二人の偉大な科学者を語るのに、グールド、ペンローズ、サックス、ドーキンスといった気鋭の現代科学者を当てる。
この本の素晴らしいところは、第一に、それぞれの科学者の成し遂げた業績に対して、素晴らしいと言う当然の評価ばかりではなく、極めて興味深く、時にはユニークな論評が加えられるのを読む楽しみがあると言うこと。
そして第二に、偉大なる先達に対して、現代の彼らがその業績をどのように評価し、どう発展させようとしているのか、つまり「肩への乗り方」をうかがい知ることができる点である。
先頭へ
前ページに戻る