- 2003/8/31 「二列目の人生」 池内紀 晶文社
- 世界新記録保持期間はわずかに30分。競技は、水泳1500m自由形。破ったのは「フジヤマのトビウオ」古橋広之進。破られたのは橋爪四郎。二人は公式の場で60回並んで泳ぎ、59回は古橋が勝った。
橋爪が初めて古橋に勝った時、既に全盛期を終えていた古橋の不敗神話は文字通り「神話」の世界に入っていた。喜びは無かった。
橋爪ほか、様々な分野の隠れた異才が16人。「華やかさ」やある種の「傲慢さ」に欠けていたが故に、歴史に埋もれてしまった「二列目の天才」たちの世界は、「我流」のユニークさや、名声を追い求めることのない「優しさ」を偲ばせるエピソードに満ち溢れている。
まさに日本の「記録」には残らないが、ある人々の「記憶」には残った人生なのである。
- 2003/8/27 「輝く日の宮」 丸谷才一 講談社
- 源氏物語の失われた一巻「輝く日の宮」は、藤壺との最初の情事が書かれていたと思われる。どんな内容だったのか、日の目を見させなかった道長の意図とは、また、彼と紫式部との関係は?これらがヒロインを通して語られる小説仕立ての一冊。
とまたまた、「どの本を読め?」の常連、田中さんより的確なご紹介をいただいたこの本は、珍しくほぼ同時期に読んだわけですが、これはもう小説ではありませんよね。
新しい源氏論なのかどうか、当方には判断もつかないが、謎解き的な展開は、源氏物語に詳しくない読者にも楽しめる。芭蕉の「奥の細道」出立の真の目的、鏡花、秋成など添え物にもしっかり配慮されている。文学研究や取り巻く学者への皮肉もちゃんとある。丸谷才一の批評眼は健在、といったところか。
しかし、である。小説風、戯曲風、年代記風と章毎に異なる文体という趣向は、ジョイス「ユリシーズ」なわけで、訳者の一人である著者のいわば得意技。ああ、やってるね、くらいの発見で、あざとくも思える。
そうそう、これは著者得意の「薀蓄」披露物で、語られる題材に合わせて、語り手を選んでいる趣向なのでしょうね。
あいかわらずの旧仮名遣いも、信念なのでしょうが、読む方としてはそろそろ飽きがきている。(飽きるほど読むからということもあろうが)ここまで来ると頑固な爺さんにも見えてくる。
主人公の講演部分は、原稿仕立てになっていて、ここでは「旧仮名遣い」を採用していない。書き言葉だからなのでしょうが、このあたり「芸が細かい」と褒めてあげるべき所なんでしょうね。
ディケンズ、ユゴー、バルザックは偉大でした。一流の評論家、一流の小説家になれずということか。芥川賞受賞作も駄作だったと思います。丸谷才一、老いたり? 寂しい感が残る一冊でした。
というわけで、私は結構楽しく読んでしまいました。
- 2003/8/27 「間取りの手帖」 佐藤和歌子 リトル・モア
- 約100帖と表記されたルーフバルコニー、ワンルームなのに玄関が二つある部屋、部屋の外にあるユニットバス(どこで脱ぐんだ?)
建物全体の見取り図を失った、不動産広告の間取り図。それを収集したこの本は、よって来る由縁を失った「ヘンな間取り」満載である。私たち「建築屋」の仕事は、お客様の生活のスタイル・要望を、例えば「平面図」という形に表現していくのだが、
これは逆に、「平面図」という形が住まい手の「生活」を規定している(ように見える)。そこから想像される生活スタイルの異様さが、この「間取り集」に凝縮されているのである。
私の修士論文は「ミニ開発」(邸宅の跡地を細かく分筆して建てられた、多くは違反建築の建売住宅)。そしてその分析手法の一つが「不動産チラシ広告のエクリチュール分析」。思えばそこから私の「ヤクザな経歴」が始まったわけだけれど、
地道に続けていれば、今頃は夢の「印税生活」だったかもしれないと、遠い眼になる今日この頃である。
- 2003/8/23 「死に方を忘れた日本人」 碑文谷創 大東出版社
- 「死」には人称がある。
「一人称の死」は「自分の死」。臨死体験を除けば「死んだことがある人」は誰もいないという意味で「一人称の死」を体験することはできないことになる。
「三人称の死」は「他人の死」。新聞、テレビ、映像、漫画等で露出される「他人の死」をどれだけ目にし、親しんだとしても、「死」の実相を知ることはできない。
「ニ人称の死」は「身近な者の死」。家族、友人など「愛する人の死」に直面して初めて、人は感じ、触れ合うことで「死」と出会うことになる。
家族の分散・解体、葬儀の「個人化」、「墓」概念の変容。「告別式」から「お別れ会」へ、「家墓」から「散骨」へ、今「一人称の死」を自らの思いで始末したいというのが
一種のブームの感がある。それは「葬祭産業」(広い意味で仏教をも含めた)に絡め取られてしまったかに見える「自らの死の尊厳」を取り戻したいという思いであるのかもしれない。
しかし、残された「遺族」にとっては「二人称の死」の「悲しみ」を乗り越えるための「文化装置」でもあるということを考えると、「自分の死」という事態の受け止め方を
「生きているうちに」真剣に考えておかねばならないと思うのである。
- 2003/8/22 「長期停滞」 金子勝 ちくま新書
- 金融の世界は信頼に基づく信用−人々が銀行を信用すること−で成り立っているのだ。こうした信用メカニズムの特性を無視して、市場競争に任せて銀行を淘汰しようとすれば、
たちまち金融システム全体が危機に陥ってしまうことになる。それゆえ、ビッグバン・アプローチに基づいて規制緩和(金融自由化)をしては信用メカニズムが破綻しそうになり、
また別の規制強化を行うという支離滅裂な結果をもたらすのだ。
道路公団は民営化で、銀行は「特殊法人化」する。郵貯を民営化すれば、銀行は「国有化」される。この冗談のような「悪夢」が、実感として実現してしまいそうなのが、
「構造改革なくして景気回復なし」の行く末である。この種の本を読んでいていつも疑問に思うのは、そこまでわかっていて、なぜ「方向転換」できないのか。ということである。
ここで論じられていることくらい、「この国」の中枢を動かしておられる「頭のいい方々」は充分認識されておられるはずで、ということは「そうしたくない。」「できない。」事情があるということなのだろう。
- 2003/8/17 「日本の童貞」 渋谷知美 文春新書
- 「童貞はいつから恥ずかしくなったのか?」それは、72年から“カッコ悪い”こととされるようになった(平凡パンチ)ということで、くしくも大学入学の年に当たる私にとって、身につまされるものがありました?
それはさておき、戦前の「男子貞操論争」(平塚らいてうVS与謝野晶子)や、「恥ずかしいもの」となってからの「シロウト童貞」「やらはた」(やらずにはたち)、そして現在の「童貞の復権?」などなど。
雑誌論文や、大衆メディアの言説の分析(構築主義的アプローチ)によるこの本は、著者が東京大学教育学科に提出した「修士論文」なのである。
でこれはあまり関係ない話ではありますが、業界の団体旅行で東南アジア方面へ出かけると、お定まりのコースに案内されて、丁重にお断りすると、まるで「異常者」を見るような驚愕の目付きで見られるわけですが
(一度は「皆まで言うな」とばかりに「遣り手ババァ」見たいな人が「美少年」を紹介してくれたこともあります。)あの時の「理不尽なやるせなさ」を思い出してしまいました。
- 2003/8/10 「フェルマーの鸚鵡はしゃべらない」 Dゲジ 角川書店
- フロベールの次はフェルマーの鸚鵡。「フェルマーの最終定理」の解法が盗まれた?数十年ぶりの音信で、突然古今東西の数学の貴重な名著を送りつけた直後、失踪してしまった古い友人。
友人の死の真相を探るには、送られてきた数学書を読み解く以外にない。古書店経営の車椅子探偵ピエール・リュシュの数学史探訪の旅が始まる。
数学史とミステリーの華麗な合体。「ソフィーの世界」の数学版。「フェルマーの鸚鵡」は最後に何をしゃべるのか?ちょっとでも数学に興味のある人、数学嫌いの人にお奨めの1冊。
こんな本が大ベストセラーになってしまう、フランスという国の文化の底力に脱帽です。
- 2003/8/8 「外国切手に描かれた日本」 内藤陽介 光文社新書
- 切手を中心とする郵便資料は、歴史学・社会学・政治学・国際関係論・経済史・メディア研究など、あらゆる分野の関心に応える情報の宝庫であり、
そこから得られた情報を駆使して、“郵便”という視点から国家や社会、時代や地域のあり方を再構成しようとするのが、筆者の考える郵便学の基本的な構想である。
本の内容そのものよりも、その構想力の素晴らしさに、読みながらうならされ続けた逸品でした。逆に言えば、構想の雄大さに内容が付いていっていないような気がする、
という意味でもありますが。今後に期待するというよりも、著者略歴を見る限り、既出の著作にそそるものがあり、今回は初心者向けの入門書ということなのでしょうか?
- 2003/8/7 「人口減少社会の設計」 松谷明彦 藤正巌 中公新書
- 2006年、日本の人口は減少に転じる。「人口が減れば消費が減る。消費が減れば物価が下がる。地価は下がり、企業の収益率の低下から株価も下がる。経済は低迷するだろう。」
「少子高齢化は高負担社会をもたらし、日本経済を破綻させる」という暗い未来の連想から「人口を維持するために子供の数を増やすにはどうすべきか」という議論も喧しい。
しかし「人口の減少」は本当に憂慮すべき事態なのか?「人口増加社会」は人々に幸福をもたらしたといえるのだろうか?
「右肩上がり」を前提とし、過剰な生産能力に需要が追いつくことによって景気が回復するというメカニズムは、人口減少化では期待できない。しかし「右肩下がり」のなかでは、需要だけではなく供給も減少するのであれば、
そこに求められているのは、「縮小のメカニズム」を組み込んだ新しい経済原理の追求なのである。
「みんな」から「個人」へ、「中央集中」から「地方分散」へと「社会の価値」の視座が移動し、「今日よりも明日は必ず余暇時間が増大する」質的に充実した社会にこそ、幸福な未来を見出さねばならない。
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