- 2003/7/31 「歌舞伎・文楽の見方が面白いほどわかる本」 七海友信 中経出版
- いまさら突然、歌舞伎にはまっておりまして、5月に歌舞伎座・團菊祭「幡隋院長兵衛」6月コクーン歌舞伎・勘九郎「夏祭浪花鑑」7月金沢邦楽会館・三津五郎「傾城反魂香」と続き、
8月には歌舞伎座・勘九郎「牡丹灯篭」、その後も10月平成中村座や、来年は新之助の海老蔵襲名披露も楽しみ、といった次第です。で、歌舞伎関連の本も読むようになったわけですが、
たかだかこれだけの体験で、ドラマというものには、極めて少数のパターンしかない。逆に、一定の「型」がなくてはドラマたり得ない、のであろうということに気付いたわけであります。
- 2003/7/31 「長期不況論」 松原隆一郎 NHKブックス
- 構造改革論は、長期的には市場任せにすれば景気が回復するという、根拠の示されたことのない信念にもとづいていく策である。・・・現実の市場が長期にわたって低迷している以上、
市場そのものに長期不況を脱する力が備わっていないことを認めねばならないはずだが、逆に規制や慣行といった制度、すなわち「構造」が市場の回復力を妨げていると見立て、
その解体を促進しようとするのである。ここに構造改革論の致命的な誤りがある。
現在の不況は、制度破壊と信頼の崩壊、将来不安に基づく「消費不況」である。構造改革論が唱えた日本型経済制度の破壊がこの不況をもたらしたのだ。それは色分けされた「椅子取りゲーム」に例えられる。
黒の椅子が5、黄の椅子が5に対し、子供が黒7、黄5であったとすれば、黒の子供2人が負け組となる。ここで黄の椅子が6に増えたとすれば、黒の子供1人は黄に廻れば助かるというのが、構造改革論である。
しかし、椅子の総数に変化がないとすると、黒の椅子は4に減るので、黒の子供2人は依然として負け組となる。「消費不況」では、椅子の総数が減るのである。
この本の真骨頂はこうした絶望的な現状分析の後に、若者の間に広まる新しい消費スタイル(カリスマ消費者、ストック消費、ひとり勝ち)に注目し、日本経済再生への指針を示した後半にある。
- 2003/7/29 「死ぬための教養」 嵐山光三郎 新潮選書
- 宗教を信じて死ぬことができる人は、それは信じる力を持った人です。死後の世界を信じることができる人は、精神力が強く、パワーがある。
かつて、医者や宗教家は、患者を延命する術、安心して死に向かわせる法を心得ていた。しかし情報や科学知識があふれるようになった現代、医者や宗教家を超えて「知識人化」する人が出現し始めている。
どんな人でも、自分以下の教養しかないものの言うことを信ずることはできない。そういう意味で、宗教が力を失ってしまった以上、宗教を信じられない人間が「自分の死を平穏に受け入れる」ためには
「死ぬための教養」を身に付ける必要があるのである。
- 2003/7/26 「タイムマシンをつくろう!」 Pデイヴィス 草思社
- この本が、冗談で書かれたのでないことは、未来への行き方と、過去への行き方を、区別して書かれていることからも明らかである。
実際、未来への行き方は比較的簡単で、何もしなくても1秒間に1秒のペースで「未来」に行くことはできる。さらに、特殊相対性理論によれば、動いている人の時間は延びるので、
光速の99%で動けば時間は7倍も遅くなる。ということは、10光年離れた恒星への往復旅行をすれば、20年後の地球に3年で戻ってくることになり、結果として17年後の「未来」へ行ったことになるわけだ。
しかし、この行程を逆にたどろうとしてもそれは不可能で、40年後の地球に6年で辿り着くことになる。「未来」への一方通行の旅なのである。
これに比べると、過去への行き方はもう少し手が込んでいて、まず光速を超えなければならない。理論上不可能と考えられてきた「光速の壁」が、ブラックホールの中では可能らしいというところが味噌で、
底なしのブラックホールが二つつながった「ワームホール」というトンネルを潜り抜けると、過去への旅が可能となるというわけだ。
技術的な光速の出し方と、ブラックホールの潜り抜け方の検討と、タイムマシンへの素朴な疑問への回答にも抜かりは無く、「過去を訪れて母を殺してしまったら・・・」などという不安で夜も寝られないという方は
是非ご一読下さい。
- 2003/7/25 「日朝関係の克服」 姜尚中 集英社新書
- 日朝関係の「克服」とは、二国間の問題の「克服」だけを意味しているのではない。それはまた、北朝鮮内の過去の克服と日本内の過去の克服、
さらには日韓関係と日米関係の「克服」にまで広がっていく複合的なプロセスを意味しているのである。
「金正日体制が続く限り、拉致問題の解決はありえないのだから、根本的な解決のためには現体制を打倒すべきだ。」という意見がある。そこまでいかなくても
「拉致問題が解決されない限り国交正常化交渉なんてするな。困るのは北朝鮮の方だから、毅然と対応すれば、必ず折れてくる。」というのが、メディアの主流を占める「世論」であるように思われる。
では「拉致問題の解決」とはどういう状態を言うのか?必ず引き合いに出される「強制連行」や「植民地支配」の清算の問題と引き比べて、その「解決」のためにどのくらいの歳月を費やすことになると想定しているのか?
現在の北朝鮮の問題を戦後の歴史的背景の中で解き起こす著者は、できるだけ早期に日朝国交を正常化することこそが、拉致問題の早期解決はもとより、日朝関係の「克服」への突破口となることを主張する。
「国際主義」と「民主主義」の「妄想」に駆り立てられたアメリカ。そのアメリカと心中を決め込んだ日本は「極東の英国」になろうというのだろうか?
- 2003/7/21 「私だけの仏教」 玄侑宗久 講談社+α新書
- ゴータマ・シッダールタが紀元前五世紀に創始した仏教は、いまや様々な宗派が生まれ、どれが正統の仏教というわけでもなく、いずれもが独特の切り口で仏教の一部を強調しながら、「八百万」状態で共存している。
しかし、大日如来や阿弥陀如来、あるいは応身の釈尊、久遠の本仏の釈尊など、祀るものは違っていても、それらはいずれも、智慧と慈悲を具えた理想の人格であり、そうした理想的人格としての仏を、目標と考えるのか、
ただ見守ってくださる方と捉えるかの違いはあっても、そこに至る方法論は、釈尊の「涅槃」の境地への信心、瞑想による精神統一に絞り込まれている。これを「禅定」という。「この世で誰もが悟れるのか。」
そんなことは誰にもわかりはしないが、「とりあえずの信」がなければ何も始まりはしないのだ。
- 2003/7/19 「本格小説」 水村美苗 新潮社
- おもしろい小説が読みたい!という方にお勧めは、水村美苗の「本格小説」(新潮社)。序文で「嵐が丘」のような小説を書きたいと宣言されている。
物語は、米国に住む日本人女性である第一の語り手「私」の回想で始まる。「私」は、文中では「水村さん」、「美苗ちゃんと」呼ばれていることから著者自身と思われる。
憂鬱な米国暮らしの日々、どこか寂しげな日本人男性「太郎」に共感と憧れを抱く。彼の消息が途絶えたある日、若い男性(第二の語り手)が訪ねて来て、秘められた「太郎」の過去が「私」に明かされる。
これは、第二の語り手が、偶然知り合った名家の女中(第三の語り手)から聞いた、「太郎」と名家のお嬢さんとの激しくも切ない恋愛物語であった。
語り手を複層構造にしているところは、エーコの「文学講義」(岩波書店)の事例にもあります。最近の小説のような場面と時間の錯綜構造はなく、読者は混乱なしに、次はどうなるの?と、どんどん読み進んでいけます。
上下二巻のかなりの分量ですが、ああおもしろかったと、ディケンズやユゴーなど古典的な小説のような、なつかしくも充実した読後感が得られます。
情感ただよう写真を昔の精密な挿絵の替わりに使っているのも、ウィリアム・モリスの表紙装丁も、「本格」的なのです。
と田中さんからご紹介いただいたとおり、「嵐が丘」が現代に蘇る超恋愛小説と帯にあるとおり、そして題名通りの「本格小説」。理屈ぬきに面白いことを保証します。
田中さんの書評があまりにも的確だったので、楽させてもらいました。(というよりも、正直に言うと、こういう類の小説は論評する自信がありません。あしからず。)
- 2003/7/18 「毎月新聞」 佐藤雅彦 毎日新聞社
- 出かけようとして靴を履き終わった後、テーブルの上に財布を忘れたのに気付く。さてあなたはどうするか? A 古新聞を飛び石状態にして辿り着く B 両膝を突いてすり足で C 片方だけ靴を脱ぎけんけんで
D 靴のままスリッパをつっかけて行く E 靴のまま堂々と、ただし足首を両側に開いて靴の外側のエッジで歩く F 古新聞2枚を手で持ち垂れ下がったところに足を乗せる「殿中でござる」スタイル
各人各様の方式が出揃い「あるあるある!」の大合唱となるのだが、不思議なことに「靴を脱いで取りに行く」という、至極当たり前の回答だけはない。これを「おじゃんにできない」心理という。
新しいことを始めるのはかなり意志の力が要るが、一旦走り出してしまったものを停めるにもそれ以上の意志の力が必要なのだ・・・といった軽妙で味のある話題が、毎月一話、4年分詰まっているのです。
- 2003/7/13 「疲れすぎて眠れぬ夜のために」 内田樹 角川書店
- あなたのお父さんが亡くなったとする。葬式も終え、あれこれの後始末を終えた後、あなたはふと「私の父は、本当はどういう人だったのだろう?」という疑問を持つ。父の少年時代や、恋愛、仕事での成功や失敗。
あなたは「本当の父」を知らなかったことに気付く。そこで、どうするか?父親の親戚や旧友を探し、訪ね歩いて証言を積み重ね、「父の像」を形成していくというのが普通である。
さて、あなたが「本当の自分を見失っていたわ」だの「本当の自分を取り戻したいんだ」というようなセリフを吐かねばならない事態に陥ったとする。あなたは自分の家族や旧友や同僚に「私ってどんな人?」と聞いて廻るだろうか?
あなたはそんなことはしない。あなたが「本当の自分」を探しに行くのは「あなたのことを知っている人が誰もいない土地」と相場は決まっている。そう、「本当の自分」というのはまるっきりの「作り話」であるからだ。
つまり「本当の自分」がどういう人間であるかは、どういう人間だと「聞き手に思って欲しいか」によって決まるのであり、時々「作り話」をして過去をリセットしなければ、やっていけないようにできているのである、人間は。
「無理はいけないよ」「我慢しちゃダメだよ」と、さまよえる若者たちを、正しい意味での利己主義へと導く福音の書。もちろん、おじさんたちにも、疲労回復のために一冊どうぞ。
- 2003/7/7 「天皇家の財布」 森暢平 新潮選書
- 天皇、皇族の活動のための「皇室費」は、皇室の公的活動に使われる「宮廷費」(2003年度63億円)と生活費を含む私的費用としての「内廷費」(3億2400万円)に分類される。
(さらに天皇家以外の宮家の私的費用「皇族費」があり、たとえば秋篠宮家は5185万円。)でこの3億2400万円という金額、課税されない手取りという意味では、7億円の所得に匹敵する給与は多いのか、少ないのか?
天皇家の財布「内廷費」を支出の面から見てみると、私的雇用人25人の人件費に1億円が支出されている。侍従職などは国家公務員であるが、政教分離の原則から私的雇用人とされた、つまりは宮中の神官と巫女とその使用人。それと御養蚕所の職員がそれにあたる。
これに私的な衣服や食費、教養、旅費と、交際費(恩賜金を含む)祭祀費(神事)という幾分公的な出費を差し引くと、純然たる「お小遣い」は一人当たり500万円ということになるのだが・・・
こうなると、それが多いか少ないかというよりも、そんなお金をいつどこで使うのかということに気付く。(実際、ほとんどが預金に廻っているらしい。)
つまり「天皇家」というのは、国が関われない事業「宮中祭祀」を請け負い、「内廷職員」に給与を支給している「個人事業主」ということなのである。
- 2003/7/6 「金正日の料理人」 藤本健二 扶桑社
- 帯に「世界的スクープ」とあるように、この本で語られている「事実」は、深く考えればもの凄く重い内容であるに違いないのだが、「できの悪い冗談」を聞いたような、この読後の「軽〜い」印象はどうしたことだろう。
存在自体が「悪い冗談」みたいなもので、外見はどうみても「喜劇」ということもあると思うが、この本に出てくる「その方」も、是非「お近づき」になってみたい、気のいい「金持ち」のおっさんという雰囲気なのである。
それにしても、出版したのが、あの「扶桑社」というのも「悪い冗談」としか思えない話ですよね。
- 2003/7/4 「星投げびと」 Lアイズリー 工作舎
- 星を投げた男によって明らかにされた裂け目についての知識と、あたりにぼんやり立ちこめるヒントを意識しながら歩こう。不可解なことに、自然のなかには人間が付与した役割以上の何かがあるのだ。
私はそのことを、虹の足もとにいたコスタベルの浜辺のヒトデを投げる男から教わったのだ。
たとえば目の前に古びた骨が与えられたとして、そこから時間の軸を行き来して、自然に秘められたもう一つの姿、その驚きと神秘の世界を渉猟できるか否かは、ひとえにその人の感性にかかっているというべきだろう。
この美しい題名(実際、題名を見ただけで買ってしまった)にしたところで、普通の人が見れば、ただ波打ち際に打ち寄せられた「ヒトデ」を海に投げ返している物好きの話にすぎないのだから。古生物学・人類学者という科学者でありながら、宇宙的感覚に満ち溢れた詩的随筆の名手として名高いアイズリーの、
これは珠玉のアンソロジーである。真夜中、部屋を暗くして、静かに瞑想にふけりながら、じっくり読み進まれることをお勧めいたします。
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