- 2003/4/27 「日本の差法」 ビートたけし ホーキング青山 新風舎
- 「差法」とは、差別するための法律や制度のこと。「史上初の障害者お笑い芸人」ホーキング青山と、ビートたけしが、
健常者と障害者として、お互いが本当に言いたいことを、対等な立場で言い合うという、バリアフリーの本質?に迫ろうとした対談。
著者の望み通り「気楽に読める」内容ではあるが、所々で「本質」にかする?
障害者雇用促進法に則って電力会社に雇用された友人の仕事が「苦情処理班」で、その年のその会社の新卒採用人数が7.5人だった!
など、現実の話のほうが過激に喜劇的であることを知りました。
- 2003/4/20 「数学ができる人はこう考える」 Sスタイン 白楊社
- 問:「巾10cmの床板が敷き詰めてある床に、長さ10cmの針を投げた時、針が床の継ぎ目と交わる確率を求めよ」 答:「2/Π」
なぜ、こんなところにΠ(パイ)が出てくるのか? ヒント:直径10cmの円形の針(円周の長さはΠ)を投げると床の継ぎ目とは必ず2点で交わることに注目せよ!
「バレーボールで実力互角のチームが24対24となった時、最終スコアとして一番よくあるのは何対何か?」
「A、B二人の選挙があって、最終的な得票率がわかっている時(A>B)開票中はAが終始リードして終わる確率は?」等など、いくつかの興味深い問いと、
難しい数式など一切なしで、解き明かされていく解の道筋。そしてそれが単にその問いへの解にとどまらず、一般化という作業を経て展開され、思いもかけない分野へと応用されていることを知るとき、
数学とは解法ではなく、問いの立て方にこそ、その真髄があることを知るのである。
- 2003/4/19 「博士の奇妙な思春期」 斉藤環 日本評論社
- 「おたく」(相手に「おたく」と呼びかけることから)=虚構コンテクストマニア、更なる虚構化としてアニメのパロディとしてのポルノ化嗜好がある。
「やおい」(「ヤマなし、オチなし、イミなし」の略)=「おたく」のうち、少年漫画、アニメのパロディとしてのホモ化嗜好を持つもの、女性が大半を占める。
「ショタ」(鉄人28号の金田正太郎に由来)=「やおい」のうち、明らかに前思春期の半ズボン姿の少年というキャラクターを愛好。
一方に「戦闘器を持つ美少女」への異常な過熱人気があり、他方に「ペニスを持った少女としての少年」への偏愛がある。思春期精神医学を専門とする気鋭の臨床医学者による、
いささか過激なアピールは、「社会的ひきこもり」に代表される若者の問題行動を、臨床経験を通して正しく広報すること、良質な報道がなされることが抑止効果となるという信念による。
つまり、「この世の中にはひきこもっている若者が予想以上に多く存在するという事実を知るだけで、救われる若者がたくさんいると予想される。」のである。
- 2003/4/15 「不景気に効く会計」 田中靖浩 日本経済新聞社
- 会計に”クスリ”とルビを振ったこの本は、「会計を学ぶ」のではなく「会計で学ぶ」姿勢を求める著者の名著「経営が見える会計」の続編、今の時代を踏まえた、実学入門講座である。
「Aという会社は30人で1億円の利益、Bという会社は3000人で1億円の利益を上げている。どちらがいい会社か?」
という問いに、最近では「少ない投資で大きいリターンを稼ぐ」という投資効率の観点から、A社に軍配を上げる人が多いだろう。
しかし、「3000人もの給料を払ってなお、1億円もの利益をあげている」B社の方が、雇用確保という意味で、いい会社なのではないか?かつての日本の経営とはそんな経営ではなかったか?
B社が2970人のリストラを実施して、より大きな利益を目指すことがそんなに立派なことなのだろうか?
この本は、時価主義、連結、減損会計、FCF等、グローバルスタンダードに振り回される日本の経済を憂い、その意味するところの本質を理解した上で、経営の本来あるべき姿を模索しようとする人への応援歌なのである。
- 2003/4/14 「北朝鮮の歴史教科書」 李東一編約 徳間書店
- 「人民軍のおじさんたちが、ある戦闘で、オオカミの米国の奴らを265人も殺し、残りの157人は生け捕りしました。初めにオオカミの米国の奴らは何人いましたか?」
「敬愛する父、金日成元帥が誕生され、幼い時期を送られ、革命の大きな志を育まれた由緒深い万景台に学生336名が見学に行きました。バス1台に48名ずつ乗ったとしたら、バスは全部で何台でしょう?」
というのは、北朝鮮の算数の教科書にある設問であるそうだが、それは基本的に歴史教科書の記述と変わらない。文章の過半に意味がないのだ。
「オオカミの米国の奴ら」=Aとおいたり、「敬愛する父、金日成元帥が誕生され、幼い時期を送られ、革命の大きな志を育まれた由緒深い万景台」=Bと書き換えても答えが同じであるように、
「偉大な首領金日成大元帥様の賢明な領導の下に」を「偉大な領導者金正日元帥様の懸命?な策謀の下に」と書き換えても、北朝鮮の歴史教科書の記述内容に大きな変化は無いように思われる。
- 2003/4/12 「日本はなぜ旅客機をつくれないのか」 前間孝則 草思社
- 伝説の名機「零戦」を例に挙げるまでもなく、戦時中の日本の航空機産業は、量産技術や品質管理は幼稚なレベルであったとしても、少なくとも性能面では欧米諸国を脅かす時代があったことは間違いない。
敗戦という壊滅的な打撃と混乱を乗り越えて、奇跡的な復興と発展を遂げ、ほとんどの産業分野で世界のトップに躍り出たにもかかわらず、航空機産業だけがいまだ二流の下請生産に甘んじているのは、なぜなのか?
米国のような巨大な国内市場と起業家精神あふれる経営者の存在に恵まれないがために、高いリスクを伴うこととなる日本では、必然的に国の援助を当てにすることとならざるを得ないが、
そこにはあいも変わらず、経済産業省、防衛庁、文部科学省等、省庁間の無責任な縄張り争い、財務省の無知、政治のリーダーシップの不在が立ちはだかる。さらに、親方日の丸をあてにするメーカーの頼みの綱の軍需産業分野においては、
国民のアレルギーや野党の皮相な防衛論議や、歪んだ日米関係もある。「日本はなぜ旅客機をつくれないのか」という問いは、日本の技術開発力にではなく、ひとえに「国家としての姿勢」に突きつけられた問いなのである。
- 2003/4/9 「容疑者の夜行列車」 多和田葉子 青土社
- 出発する時には、目的地ははっきりしている12個の夜行列車の旅。出発地と目的地があれば、あとは眠っている内に過ぎ去ってしまうはずであったその旅が、これほど濃密なまとわりつくような旅になろうとは、「あなた」は想像だにしていなかったはずだ。
しかし「あなた」はまた、目的地に落ち着くことなく、旅が終わればすぐに次の旅が来るという「宙吊り」の立場に、居心地のよさを感じ始めていることも否めないことだろう。「あなた」が「自分を自分と思うふてぶてしさを買いとって」、「わたし」であることを引き受ける決意を見せない限り、
「あなた」は「あなた」のままで、「わたし」予備軍としての終わりなき逃避行を続けることになるのだろう。
- 2003/4/6 「泡沫桀人列伝」 秋山祐徳太子 ニ玄社
- 秋山祐徳太子という人は、私が学生だった時、赤尾敏などと一緒に東京都知事選に立候補した人で、その時は「怪しい人」だと信じていました。(美濃部さんと石原さんが一騎打ちして美濃部さんが勝利した選挙ですね。)
いわゆる「泡沫候補」というやつで、この本のタイトルにつながるわけですが、「怪しい人」という印象が正しかったというべきか、想像の域を超えていたというべきか?
ここに描かれた人々の「怪しさ」や「泡沫さ?」に対するには、一体どんなリアクションをしたらいいのでしょうか。まあどのようなリアクションも期待していないところが「泡沫」の「泡沫」たる由縁なのでしょうが。
- 2003/4/3 「望楼館追想」 Eケアリー 文芸春秋
- 手甲をはめ 脚覆いをつけ/心に鎧をまとったので/触れられたり/毒をかけられたりするところは/体のどこにも残っていなかった
(中略)すべての準備ができたところで/私は優しくこう答えた/−私もあなたを愛している、と。<Mソレスク 「用心」>
他人が愛しているものを盗み、ロット番号を付けて秘密の地下室に展示、蒐集している「ぼく」は、常に白い手袋をはめ、蝋人形館で(蝋人形として)アルバイトをしている。
体中から汗と涙を流し続け、百種類の臭いを発散する「元教師」。肘掛け椅子に腰を下ろしテレビを見続ける「老女」。首輪をつけ、犬の毛で身を蔽い、人語を解さぬ「犬女」。
半死半生の状態で、椅子に座ったまま冬眠しているような「父」。寝室に閉じこもり幸せだった時代の思い出の中で生きる「母」。禁欲的で自らの役割に厳格な「門番」。
いずれ劣らぬ7人のシュールな面々が暮らす5階建てのマンション「望楼館」に、ある日新しい住人がやってきて、止まっていた時間が動き始める。
傷つくことを恐れるあまり、封印されてしまった愛への渇望の切なさが、館とともに解体され、再生されていく癒しの物語。
付録とされた展示品リスト996点にさえ、ついに書かれることのなかったエピソードがあふれていて、大大大満足の超オススメの逸品です。
- 2003/4/2 「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」 金水敏 岩波書店
- 「そうじゃ、わしが知っておる」 −関西人
「そうですわよ、わたくしが存じておりますわ」 −中国人
「そや、わてが知っとるでぇ」 −老博士
「そうあるよ、わたしが知ってるあるよ」 −お嬢様
上記の組み合わせを正しく並び替えなさい。という問題に、答えられない日本人はほとんどいないのではないか?それではあなたは、
「そうじゃ、わしが博士じゃ」という博士や「ごめん遊ばせ、よろしくってよ」としゃべるお嬢様に、実際にお目にかかったことがあるだろうか?
現実には使われていないにも拘らず、約束事として使った方が型通りで納得しやすい、ヴァーチャルな日本語としての「役割語」の世界をお楽しみ下さい。
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