徒然読書日記
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2026/1/31
「連塾 方法日本T 神仏たちの秘密」―日本の面影の源流を解く― 松岡正剛 春秋社
まずもって、このシリーズの名称は、「連塾」にしました。けっこう気にいっているネーミングです。「連」というのはもともと江戸時代にたくさん 生まれた、いわば同好の趣味のネットワークです。
<それらは、おもにサロンとして集うような場で、センスや知識を競いあうなかで育まれたものでした。>
と始まったのは、福原義春などの名士が集まって作った「松岡応援団」が母体となって開催された、松岡から日本について学ぼうという「連塾」の第一講である。
私がみなさんに伝えたいと考えていることは、一言でいえば
「日本という方法」
です。「方法日本」です。今日の日本は、主語になりすぎている。
主語はたしかに大事なものだが、20世紀のあいだに大半の主語や主題が出揃ったにもかかわらず、何一つ実現していないのは、方法が取り沙汰されないからだ。 アインシュタインの相対性理論により、世界を見るサイズがマクロからミクロになり、物事のオーダーが変わった時、世界をどう見るかという価値観も変わった が、そんな20世紀物理学の成果はまったく生かされぬまま、21世紀の世界では、グローバル・スタンダードのようなマクロの基準が世界中のミクロを圧倒 している。
<本来の日本は、ミクロのほうに世界を発見していくという独特の方法をもっていたんです。「小さきもの」です。それが「日本という方法」のひとつだった。> という、第一講「日本という方法」(笑ってもっとベイビー無邪気にオン・マイ・マインド―外来文化はどのようにフィルタリングされてきたか―)では、典型的 な和風屋根の意匠「てりむくり」と、西田幾多郎の哲学「絶対矛盾的自己同一」とが相互同時に語られ、(なぜ桑田佳祐が出てくるのかは自分でお確かめを!)
第二講「神話の結び目」(住吉四所の御前には顔よき女體ぞおはします―日本にひそむ物語OSと東アジア世界との関係―)では、椎名林檎の歌から始まって、 何かの面影を髣髴とさせる「うつし」という方法から、日本神話に隠されたオモテとウラの結び目が、鮮やかにとき解かれていき、
第三講「仏教にひそむ謎」(重々帝網・融通無碍・山川草木・悉皆成仏―仏教的世界観がもたらした「迅速な無常」―)では、法華経にのめりこんでいく宮沢賢治 の姿を通して、「一切皆苦」という日本仏教の一つの入り口から、「縁起」と「空」という大乗仏教の基本概念が示される。
といった次第で、<さまざまな日本的主題がもつ領域的帰属性からできるだけ離れて、その氏と育ちの関係を別の布地で縫製する>ようなスタイルをとったのは、 <たんに「日本」を議論したいのではなく、あくまで「方法日本」を歴史をまたいで相関的に、かつ重層的につなっげたかった>からなのだという。
どんな国や民族の社会文化もそうですが、日本には日本なりの「面影」というべきものが動いています。・・・多くの面影の動向去来には、そこに何かが もう一つか、もう二つかが加わると、たちまちつながるものが躍如するのです。
<今日の日本には、そのように、さまざまな面影の動向にひそむ何かを複眼的にもポリフォニックにもつなげる方法の目が必要です。>
ところでこの本は、京都の比叡おろしにちなんだ「八荒次第」と銘打って、実は数ヶ月おきに8回開催された「怒涛の日本論」シリーズの3回目までにすぎない ので、セイゴオ先生がこの講義で少しずつ開いていった、日本の方法をめぐる百ほどのキーワード
「百辞百景」
という、方法のコンセプトすべてのご紹介 は、また改めて。
202/1/25
「青い壺」 有吉佐和子 文春文庫
窯の蓋に手を触れると、軍手を通して熱が掌に伝わってくる。蓋を一枚引いて開けた途端に窯の中の熱が省造の顔に向かって噴き出てくる。・・・ 釉の色が青く透き通っている。
「こんだけ美しに青いの、久しぶりと違うんか、お父ちゃん」夫に呼びつけられた妻のそんな声をよそに、青い磁肌に掌を当て、いつまでも黙って撫でまわして いる、寺やデパートが配りものにする型物の注文などで三十年食いつなぎながら、細々と一点物を焼き続けてきた省造にとって、その「経管」は明らかに出来が 違っていた。だが、小さな床の間にそれを飾り、しみじみとした喜びを胸に妻と玉露で一服しているところへ、馴染みの道具屋が現れて・・・物語は大きく 転がりだすのである。
「これがほんまの砧青磁やな」と褒めちぎっておきながら、自信作に古色をつけろという道具屋の注文に、苛立ちを隠しきれない省造の、その鬱屈した思いを 察して、ぷいと外出してしまった夫の留守中に、訪れたデパートの外商に預けた妻の機転から、壺はそのまま東京本店の美術コーナーに立派な箱付きで展示 されることになり、ここから始まるのは、一つの美しい「青い壺」をめぐる13編の連作物語だが、壺が辿った波乱万丈の足跡には、いくつもの人生模様が折り 重なり、刻み込まれていく。
この壺をその価値もわからぬまま2万円で買ったのは定年退職した夫妻で、世話になったお礼にと贈られた会社役員はその思いを持て余し妻に処分するようにと 渡す。生け花を嗜む妻は花器としての活けかたの難しさに閉口して、その壺を若い稽古友だちに譲り、彼女はそれを母親の目の手術を執刀した医師に感謝の印と して届ける。木箱に入ったウィスキーと勘違いした医師は行きつけのバーに置いていき、返却されたそれを受け取った医師の母は、壺に触発され眠っていた過去7 の記憶を語りだす。その母が亡くなり、母が語った戦時中の架空ディナーの思い出話をなぞるように、古い洋館でのディナーに夫妻が出かけた夜、空き巣に 襲われ「青い壺」は消えた。
境内のちょうど中央の辺りに、大きく場所をとって、骨董類を並べている売り場があった。弓香はそこで眺めまわして、ふと青い壺に目を止めた。円筒の ような形をしている。
再びそれが姿を現したのは、京都東寺の弘法さんの縁日だった。女学校卒業以来50年ぶりの同窓会に参加した弓香は、旅行記念にと掘り出し物を探していた のだ。「高いわよ、あれは」と友だちは言い、安い筈がないと自分も頷いた弓香は、こわごわ手にとって、5万と言われたら、ぱっと立って行ってしまおうと 身構えたが、「3千円でどないです」・・・。
というのは、あくまで壺にスポットを当てた場合の粗筋で、同じ一つの作品が、その人が置かれた立場によりその評価を異にしていくところが味噌なのだが、 物語の本筋はあくまで、定年後の悲哀や、遺産相続、介護問題や嫁姑の確執など、それぞれの家族の色とりどりの人生模様が展開されていくドラマの方なので、 著者お得意の心理描写の冴えや、ちょっぴり意地悪な視線からの眺めなど、鮮やかに織り込まれていく人生のタペストリーを、存分に楽しむことができる怪作 である。
さて、弓香から孫に引き継がれた青い壺は、修道女に贈られてスペインに渡り、紆余曲折の末、名高い美術評論家の手で日本に持ち帰られることになるのだが、 10年の歳月を経て、ようやく自らの自信作と再会を果たすことになった省造にとって、それは思いも寄らない衝撃的な「出会い」となったのだった。
「名品だよ。南宋浙江省の竜泉窯だね。12世紀でも初頭の作品だろう。・・・色といい艶といい青磁の最高峰だから、日本ばかりでなく・・・」
2026/1/24
「貧乏だけど贅沢」 沢木耕太郎 文藝春秋
何が贅沢な時間であるかは人によって異なるだろう。だが、不自由であることが未来に向けての贅沢な時間を鍛え上げる、という点では共通している ように思える。
金はなくとも贅沢な時間を味わうことはできる、というよりも、自由になる金が増えていくにつれて、むしろ贅沢な時間は味わいにくくなるかもしれない。 <たぶん、旅における贅沢な時間とは、必ずしも金で買えない何かなのだ。>というこの本は、デビュー作『深夜特急』でそんな「旅の贅沢」を実践した著者が、 旅における「贅沢な時間」をめぐって10名のゲストと語り合った対談集である。
「ものすごく漠然としているんですけど、仰々しくなく、あまり寒い風の吹かない、生きてるっていいなって話をやりたいと、そればかりなんですね」出たい 映画や、やりたい役柄から始まった映画談義は、俳優としての自らの未来から、「ここで死ぬんだ」という死に場所を見つける話へといたった、高倉健。
「常に迷子になる可能性をもっていたんですね。つまり、予定通りにはなかなか行かないわけです。『深夜特急』もそうですが、その迷子になる可能性 というのが、旅の本質に含まれているんじゃないのかな。」『おくのほそ道』における漂白の意味から始まった、熟達した旅人同士の会話は、発刊されたばかり の『深夜特急』第3巻の話題へと収斂していった、高田宏。
「今の若者の実感はわからないけれども、二十六ぐらいというのは、最後の自由のぎりぎりのいい見当なんだと思う。」旅の先達の作品談義に端緒をきった 香港通のコラムニストとの「どこから始めるか」の議論は、まず近いところで旅のレッスンをという結論を得た、山口文憲。
「世界には二種類の場所があるという気がするんです。つまり、放っておいても物事が起こってしまう場所と、自分のほうからアクションをし掛けないと物事が なかなか起きないという場所。」境界を越えて違う種類の世界へ踏み込んでいくのが「旅」ならば、という文化人類学者との対話は、<夢見られた世界>の現実 を表出させた、今福龍太。
「自分でも勲章だと思っているのは、これだけ負けて、払い続けて来た人間はいない、ということなんです。だから逆に、みんなに信用してもらえた。」バカラ 必勝法から始まったプロ雀士との楽しいおしゃべりは、きわどい浮きで暮らしてこられた「博打的人生」の極意を浮き彫りにしてみせた、田村光昭。
「森の少女とカジノの男」井上陽水、「贅沢な旅」阿川弘之、「十年の後に」此経啓助、「だから旅はやめられない」群ようこ、「ラテンの悦楽」八木啓代。
「対談の席では最小限の相槌を打って相手の話に耳を傾けていたい」のは、自分の知っている話より、相手の話す知らない話を聞いている方がはるかに楽しい からだ。と正直に吐露する著者が、にもかかわらず、ついついしゃべりすぎてしまうのは、もちろん、そうしなければ対談にならないからという形式的な理由も あるが、むしろ、すぐれた話し相手を持つと、自分の知らないこと、自分がふだん意識もしていなかったようなことが、口をついて出てくることがあるから なのだという。
どうぞ、夜更けのベッドサイドや、できれば、旅先のカフェの陽だまりの中などで、「金で買えない何か」に出会う「贅沢な時間」を満喫していただきたい。
対談の途中で、自分はこんなことを考えていたのか、と驚いたりする瞬間が訪のれるのも決して珍しいことではないのだ。
2026/1/7
「逃走論」―スキゾ・キッズの冒険― 浅田彰 ちくま文庫
男たちが逃げ出した。家庭から、あるいは女から。どっちにしたってステキじゃないか。女たちや子どもたちも、ヘタなひきとめ工作なんかしてる暇が あったら、とり残されるより先に逃げたほうがいい。行先なんか知ったことか。
<とにかく、逃げろや逃げろ、どこまでも、だ。>
というこの本は、『構造と力』で鮮烈なデビューを果たして一躍脚光を浴びることになった、ニューアカデミズムの最前線を疾駆する知性による第二作である。 この本で展開される議論に一貫して通底するテーマは、<パラノからスキゾへ>というもの。(ちなみにこのフレーズは、本著発行当時に流行語となった。)
<パラノ>型とは、偏執(パラノイア)型のことで、過去のすべてを積分=統合化して背負ってしまうようなタイプをいうのに対し、<スキゾ>型とは、分裂 (スキゾフレニー)型のことで、そのつど時点ゼロで微分=差異化している、一瞬一瞬にすべてを賭けるギャンブラーのようなタイプをいう。《追いつき追いこせ》 競争のランナーとして、眼を血走らせて頑張り続ける<パラノ>人間と、競争に追い込まれるとあらぬ方向に走り去ってしまう<スキゾ>人間。
《追いつき追いこせ》のパラノ・ドライブによって動いている近代社会は、そうしたスキゾ・キッズを強引にパラノ化して競争過程にひきずりこむことを 存立条件としており・・・
もちろん、ドゥルーズ=ガタリや、マルクス再読についての論客との討議も展開されるこの本は、1984年という昭和晩年に出版されたものなのだから、 「難解なだけでカッコよかった」その時代の"知的な"若者たちの雰囲気を色濃く反映してもいるが、にもかかわらず、あくまで軽い読み物風の印象を受けるのは、 長いのや短いの、硬いのや柔らかいの、独白や対話など、さまざまな材料をパッチワークのように集めた<雑多な本>が好きだと告白する、京大経済学部で数理 経済学とゲーム理論を専攻しながら、ポスト構造主義の社会哲学に強い関心を示して重点を移した著者の、「理科系」の素養の手柄なのだろう。
昭和の終わりに発信された《知的逃走》のための挑発的メッセージ。これは、令和の時代を生きる私たちが軽やかに《知》と戯れるための処方箋なのである。
え?「でも、ちょっと安易すぎるんじゃない?こんな支離滅裂でいいの?」だって?とんでもない!
できることならもっと支離滅裂にするべきだった――数学的論文や文献的研究もあればマンガや楽譜だってある、という風に。むしろ、まだまだ枠にとらわれ すぎていて、同じ論旨の反復も多い。欠点はそちらの方だと思う。
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