昭和28年10月22日 | 田村優樹、この世に生を享ける。 馬場三番丁の自宅でお産婆さんの手を借りての出産 (既に病院での出産が普通になっていた時代なのに!)。 首にへその緒を巻きつけた難産だった。 |
昭和31年 | 三輪車で溝に落ち、頭を縫う大手術。 母親が頭から止血剤をぶっかけたことが効を奏し、一命を取り留める。 この時に脳内の悪い血がすべて流されたため、後に「神童」の名をほしいままにすることになったという噂は聞かない。 |
昭和32年4月 | 馬場幼稚園に入園。 姉2人の3番目の子供だったため、3年保育に無理やり突っ込まれたが、登園拒否児として近隣に名を馳せる。 |
昭和34年12月 | 登園拒否児のまま、なぜか幼稚園のお遊戯会で、マリア様を祝福する「博士」として衝撃の舞台デビューを果たす。 |
昭和35年4月 | 金大付属小学校に入学。裏工作疑惑に近隣が揺れる? |
昭和39年7月 | 学年の代表として、MROテレビ「小学校○○教室?」に出演。 始めから問題が判っているのに、考える振りをするという、マスコミ界の裏側に気付く。 |
昭和41年4月 | 金大付属中学に進学。 |
昭和42年 | ハンドボールクラブの正選手として、県体育大会で優勝! その後は専ら「文化委員長」として、文集「柏樹」作りに没頭。編集力と文才を磨く。 |
昭和44年4月 | 金大付属高校へ進学。 野球部に入部するも、投手希望にもかかわらず捕手をやらされ、すぐに退部する。 |
昭和45年 | 生徒会長に就任。 「生徒会運行執行部」(セイトカイウンコシッコブー)と銘うって、様々な催しに参画。 「卒業生を送る会」では、歌舞伎「勧進帳」をプロデュースする。 |
昭和47年4月 | 東京大学理科T類に入学。 「学園闘争」に遅れてきた世代として、「学園紛争」を体験する。 |
昭和49年4月 | 工学部建築学科に進学。 丹下健三の最後の授業に出席。なんと1年に1回のみで、あとは全て休講だった。 |
昭和51年3月 | 卒業設計「個から集合へ」にて、卒業計画賞受賞。 自慢するわけではないわけではありませんが、これって意外と凄い賞なんです。昔は「辰野金吾賞」といって、金時計が授与されていました。 |
昭和51年4月 | 大学院修士課程に進学。 建売住宅の「チラシ広告」の分析などという「ヤクザ」な研究に首を突っ込み、本流から外れる。 |
昭和53年4月 | 博士課程に進学。 同時に(有)ケイプランナーズという都市計画事務所に入所。まちなみ保存運動に関わり始める。 |
昭和54年 | 大分県玖珠町にて、地方文化活性化の泊り込み調査。 1ヶ月間、お寺に泊り込んで、毎晩住職と麦焼酎を酌み交わしてました。 この他にも、大井川の川止め宿のまちなみ保存や、神戸市の駅前違反駐輪実態調査など、いろいろおもしろいことをやりました。 |
昭和55年4月27日 | 結婚。 世間的には「学生結婚」なのでしょうが、本人としては、学生という認識はほとんどありませんでした。 |
昭和55年6月 | JICAの一員として、ジャカルタへ3ヶ月の出張。 現地の国鉄の交通量調査。オフィシアルパスポートの肩書きはなんと「エコノミスト」! |
昭和56年3月 | 就職を控えて、ヨーロッパへ1ヶ月間の新婚旅行。 「25カ国30日間の旅」初めてだったので、できるだけ安くいろんな所へと欲張りました。 |
昭和56年4月 | 戸田建設東京支店へ現場希望で入社。 食べていけなくなったので、のはずが、入社前より収入減!直訴して初任給を上げてもらいました。 |
昭和57年8月17日 | 長男誕生。 |
昭和58年 | 営業部に転属。 無理やり転属させられましたが、営業のほうが向いている自分を発見。金融関係の会社を担当。今はなくなってしまった会社がなんと多いことか! |
昭和59年12月21日 | 長女誕生。 |
昭和60年12月 | 戸田建設退社。(株)田村へ入社。 本当は家業を継ぐ気はありませんでしたが、まあいろいろ事情があって。 「帰ろうかなあ」という想いが頭の片隅にでも生じてしまった自分に気付くと、 もう東京で踏ん張っていることができませんでした。 |
平成3年2月 | 株式会社田村新社屋「東山風の街」完成。 こうして自分の年表を作ってみると、最近は日々の暮らしに精一杯で、ほとんど書くことのない現実にぞっとします。 |
平成7年5月 | そういうわけで、石川県中小企業家同友会に入会。 結構その雰囲気が気に入って、頑張っていろいろ関わり始めています。 |
平成8年3月 | 株式会社田村 代表取締役社長に就任。 現在、「環境」「シルバー」「情報」を切り口に、今後の方向を模索しています。 |